◎古貨幣迷宮事件簿 「どこまでが密鋳銭?」
部屋の片づけに着手してからだいぶ時間が経ち、床や奥が見えるようになって来た。
長らく放り込んでいた品も次々出て来る。
鉄銭がひと包みあったので、中を検めると、大半が密鋳銭だった。
まったく触っていないので、面文がまるで読めない。
面白いのでひと握りすくって内容を見てみることにした。
当初、「面倒だからヌメリ取りに漬けようか」とも思ったのだが、これをやると簡単に錆が落とせる反面、どれもこれも同じ色に化けてしまう。
具体的には上の画像のEイだ。一様にこれになってしまうので、面倒でも金属ブラシで錆を落とした方がましで、情報が損なわれずに済む。
もちろん、軽く撫でて表面の鉄(赤)錆を落とす程度にする。
実際にそうしたのだが、赤錆は割と簡単に落とせ、シンクが赤くなってしまうのに、なかなか落ちない。
疑問に思いよく見ると、錆ではなく砂が残っていたのだった。
「こりゃ本当に密鋳銭だが、全部というわけではあるまい。どれとどれが密鋳銭なのだろう?」
乾かした上で並べてみた。
(1)一文銭(①から⑥)
A全体図を見ると分かりよいが、①②は目寛見寛座の周辺の産物で、③以降はいずれも穿を切ってある。こういうのは遠目の方が分かりよいが、常識的には、小吹の密鋳銭座(「座」と言えるかどうかは別として)の製品で、かつ明治四年以降のものだ。
母銭の穿をより深く切り込まねばならなかった理由は、「藁通しを効率よく行うため」だ。穴を広めに開けて置けば、バリの影響を受けずにサクサク通せる。
何故急いで通す必要があったのか?
これも簡単で、銅銭と鉄銭の交換比率が極端に変動したのが明治三年頃からで、これ以後は鉄銭の交換比率が6:1にまで下がった。
密鋳鉄銭であれば、さらに低く「一文括り」が八枚を超え十枚に到達し、最後は重量換算になったようだ。(これは実際に出て来た括りを調べた結果だ。文書に「と書いてある」という情報ではなく実証済みのもの。)
ひとつの疑問は⑥の「背久」で、この銭種の母銭を果たして持っていたのかどうかということだ。背千であれば、石巻っからの帰村職人が持ち帰ったり、葛巻系の密鋳母銭を入手でたろうが、背久はどうしたのか?
鉄銭を母型にするというウルトラCも無くは無いが、その場合は、穿を削ることに困難が伴う。ま、密鋳銭には「何でもアリ」の面があるから、この件は保留だ。
砂が良いから、単に「混じった」だけかもしれん。
(2)当四銭(⑦~⑭)
錆・砂を取り過ぎ、色が灰色に変わったものがあるが、多くは砂鉄系(たたら鉄)となっている。⑦、⑨から⑪は浄法寺(山内)の母銭の系統のようだが、山内より数段劣るので、単に「山内系母銭を使用した」ということか。
⑧は改造母による鋳銭だが、小字あたり。
⑫の仰寶は高炉鉄に似ている。もちろん、「混じった」という可能性もあろうから不思議ではない。
問題は⑬⑭で、銭種的に見ると⑬は削頭千、⑭は栗林広穿となっている。
一文背千は南部北方地域に割合導入されているのだが、この地域の銭密鋳は当四背千の鋳銭時期とは少しずれるので、削頭千の事例は想定し難い。母銭の入手が困難で、深川銭などの改造母を利用した方が早いということだが、実際には鉄通用銭を台として写したものも皆無ではないとのこと。
手元の石巻削頭千と並べてみたが、少し小さいことと薄いという点が目につく。だが、密鋳鉄銭にありがちな極端な違いは見られない。性急な結論は避けるべきで、「よく分からない」としておく。
⑭は鉄銭好きには「シビれる」一枚だ。外見上、この鉄銭はたたら鉄に見えている。
ところが銭種は広穿だ。広穿は南部領内では栗林座の固有銭種で、基本は高炉製になる。他銭座への伝鋳も聞かぬことから、通用銭は高炉鉄(銑鉄)にならねばならない。
ただ、他の銭種の銭径が顕著に縮小している割には、この銭だけ径を保っているようにも見える。
となると、たまたまたたら鉄に似た出来になり、かつそれが流通段階で混じったというケースも否定は出来ぬと思う。
こういうのは、ケースを踏んで眺めて行く必要がある。
当四銭の⑧➉⑪⑫は明らかに穿に手を入れてあるが、これは一文銭の理由と同じだ。
⑭は銭種自体の穿が広いわけだが、さらに切ってあるようにも見える。
二戸から軽米周辺では、密鋳銭の混入割合が高いので、かなり楽しめる。
注記)いつも通り推敲や校正をしない書き殴りで、時々不首尾がある。
日々の感想を記すただの日記に過ぎぬと記して置く。