◎鴈食(黒平大豆)の思い出
戦後まもなくのこと。
母方の祖父は地域農業の多角化策を考え、岩手郡一帯で鴈食栽培を推進することにした。
この祖父は地主の末裔で、いわゆる地方の名士だった。
農地解放で土地の大半を取られたのだが、しかし立場は変わらない。
旧家に育った母たち兄妹は、父親の前では常に正座して居なくてはならなかったそうだ。もちろん、小さい時に膝の上で抱かれたことも無いとのこと。
栽培は順調に進んだが、そこで祖父は考えた。
せっかく作っても、販路を開拓出来なければ、この豆が宙に浮いてしまう。農家は商売のことが不得手だ。
そこで行き着いたのは、「商人のところに娘を嫁にやろう」ということだった。
そしてそれを実践し、長女である母を父のところに嫁がせた。
半ば政略結婚だが、思い立ったことを行動に移すところは凄い。
さすが旧日本陸軍の斥候兼狙撃兵だ。ニューギニアの島にいた三万人の日本兵のうち生き残れたのが五百人しかいなかったのに、この祖父は生き残って帰って来た。
斥候なので洞窟内ではなく外にいたから助かったのだが、たぶん、敵兵を何十人も狙撃していると思う。
父は田舎の小売商店主だったが、黒豆の取りまとめと販売もやっていた。萬屋の一年分の売り上げの何倍かを冬の二か月で稼ぐから、もちろん、真剣だった。
最初は大舘の仲買相手に豆を卸していたのだが、この相手が曲者で散々、掛け買いしておきながら、払いが悪い。そこで取り立てに行くと、家の前に債権者が山ほど集まっていた。
そこにその仲買が家族全員で出て来て、「もう払えませんので、殴るなり蹴るなり好きにしてください」と土下座したそうだ。
もちろん、それも算段づくで実質的に掛け取り詐欺だ。
この手のことが秋田ではよく起きたので、南部の商人は掛け取り詐欺のことを「秋田の商法」と呼んでいたようだ。
こういう経験があったので、父は仲買を通さずに直接、東京に売ることにした。秋口になるとこの年の作柄の予測が立つから、東京の問屋を回って予約を取る。それに応じて岩手で農家から買い集める。そんな段取りだ。
十一月から十二月はこの取りまとめが忙しく、大変だった。
私は小学生の時から豆俵を担いでいた。女たちが袋に詰め直したのをトラックに積む。ひたすらこの作業を夜中までする。
最大では、「貨物列車十五両くらいの黒豆を東京に送った」ということなので、「小売商店の売り上げの何倍か」は現実だったのだろう。
60キロの豆俵を一人百個から二百個を積まねばならんので、高校生くらいまでは冬が憂鬱だった。十時頃にその日の仕事を終え、風呂に入って食事をする。その頃には十二時だ。
それからが勉強の時間だったが、さすがに体がもたない。
成績など常に乱高下していたが、当たり前だ。
いつも「(百㍍競争に例えるなら)せめてハンデを二十㍍後ろくらいにしてくれ」と思っていた、あるいは他の生徒にも俵を担がせろ。
この方面は高度成長時にはすごく儲かっていたのだが、ある年に東京の問屋に騙され、数億の欠損が出来た。
父は荒れに荒れ、浴びるほど酒を飲んでいた。
この時には下手をすると一家心中になっていた筈だが、父は数年で立て直し、事なきを得た。息子たちは命拾いした。
でも、相手先が東京の何という会社だったは憶えていて、今も動向をチェックしている。会社自体は存続しており、物産会社をやっている。コンサルタント時代には「いずれこの会社を潰してやる」ことを考えたが、犯罪になりそうなので、何時でも出来る体勢を作り、常に注視して来た。あこぎな経営コンサルなら、他人の口座の中を開けて見る方法など知っている。犯罪だからいざと言う時までやらないわけだが。
ま、私が死んだ後に「祟りをもたらす」ということなら問題が無いので、死後はこの会社を必ず取り潰して、大半を路頭に迷わせようと思う。相手が忘れても、一家心中の手前まで行かされた者はけして忘れない。必ず因果応報を知らしめる。
昭和四十年代にはすごく儲かった時期があるのだが、父は売り上げと働きに応じ、息子たちにもきちんと分け前を払ったので、私には十数年で数千万の貯金だ出来ていた。この金で三十歳で自分の会社を作れた。ま、商才は無かったようで成功したとは言えない。
黒豆のビジネスのために、父が営業で東京に来ていたのは、私が大学院生くらいの時までだったと思う。
正月におせちを食べる習慣が次第に廃れ、黒豆も売れなくなった。
父は東京に来ると、私のアパートに泊り、私を道案内に問屋を回った。
ニ十六くらいの時に父が東京に来たことがあるのだが、その時に私は風邪を引いていた。しかし私が案内しなくては移動に困るから、父と一緒に上野やらの問屋街を長く歩いた。
帰宅する時に寿司屋でビールを飲み、アパートに帰ったが、汗を掻いたので風呂に入った。
この組合わせが悪かったらしく、夜中になり、私は心不全を発症した。
鳩尾の鈍痛が治まらぬので、父を起こし、「どうも気分が悪い」と告げると、父は私の顔色を見て「ただならぬ事態だ」と悟ったらしい。
部屋に電話があったのだが、父は動転して外に走り出て、駅前のピンサロに駆けこんだ。
そこは丸暴の経営する店だったが、父が「息子の命が危ない」と告げると、店の人がすぐに協力してくれ、救急車を呼んでくれた。
ヤクザ者には長所もあり、困っている者や貧乏な者には多く手を差し伸べる。逆に金持ちは危機の時には殆ど助けてくれない。周りで見ているだけ。
私がツイていたのは、消防署まで二百㍍の距離に住んでいたことだ。十分もかからずに救急車が来て、三百㍍先の救急病院に運んでくれた。
そして担架で院内に運ばれる途中で、私は心停止した。
そのまま死んでいたなら、たぶん、「ポックリ病」として診断されたと思う。
この時のことで憶えているのは、処置台に横たわる自分を見ていたことと、廊下で待っていた父を救急隊員が慰める話の内容を隣で聞いたことだ。
幸いなことに、私は数分で息を吹き返し、この世に戻って来た。翌朝までその病院で寝ていたが、心臓の発症は通り過ぎると何ともなくなるので、翌日の午前中には部屋に帰った。
心停止の影響なのか、私にはこの時の前後ひと月くらいの記憶がまったく無い。完全に欠落してしまったので、ぼんやりとしか思い出せない。三十歳頃だったかと思っていたが、その数年前かた研究所勤務だったし、その後は自分の会社がある。
要はその前のニ十六歳くらいだったということだ。
面白いことに、父にも記憶が無いそうだ。これは「息子が死ぬかも」と必死で行動したことによるようだ。
父は救急病院まで救急車で息子に付き添ったことも朧気だと言っていた。
生き死にに関わる出来事だったのに、記憶があまりない。
昭和の末には、黒豆のビジネスは退潮傾向となり平成にはほとんど行われなくなった。
だが、平成半ば以降になると、「鴈食豆には皺があり、汁が良く馴染むから」と、東京の問屋から照会が来ていた。
もちろん、後の祭り。
鴈食関連でもっともよく思い出すのは祖父のことだ。
祖父のように頭が切れ、弁舌が巧みなら、どうにでもなっている。祖父は三十歳くらいからずっと数十年間、地方議会の議長をしていたが、さらさらと話を取り纏めるから当たり前だった。
一方、帝国軍人の極みで、ただ立っているだけで、佇まいが怖かった。とにかく凄みがあるし、目力が強い。
そのせいなのか、殆どの人が祖父には敬語で話していた。
祖父は165センチくらいだったと思うが、それよりはるかに背が高く見えた。
私は頭の切れや凄みは全く似ていないが、気性が激しいところが少しだけ似ている。
私は「切れる」ではなく「キレてる」方だ(笑)。