◎夢の話 第1K42夜 賽の河原
十三日の午後十時に観た短い夢です。
我に返ると、どこか知らぬ地に立っていた。
周囲を見回すが、どこもかしこも赤茶けた岩山と砂漠だ。
まるで、火星か米国アリゾナ州の景色みたい。
足元を見ると、地面は砂ではなく、さざれ石だった。
「岩石砂漠か。ここはけして来てはならぬところだ」
何せ、岩石砂漠は文字通り「あの世の一丁目」だからな。
「ということは、俺は死のうとしているわけだ。あるいはもう死んだか」
これからどうしよう。
周囲はどこに向かおうとも十キロくらい歩くことになりそう。
足元は底の薄い運動靴で、砂利の上を歩くのには向かない。
「だが、じっとしていても、埒が明かない。ここから移動しよう」
何せ、実はここが「賽の河原」だ。いずれかの方角に三途の川もあれば、「死出の山路」もある。
ここでは俺の主観的なイメージが周りの景色に反映されるから、遠近などは当てにならない。
歩き出せば、案外、すぐに三途の川が現れるかもしれぬ。
「今分かっていることは、仮にここにじっとしていると、いずれ鬼か『遣り手婆』がやって来るということだ」
俺の死後の世界観には、きっと仏教的なそれが中心になっている。
だから、ここで見える者の姿かたちは、俺自身の心が描き出したものに近い筈だ。
それなら、あの世、すなわち幽界は怨霊と化け物の巣窟だ。
俺はゆっくりと歩きだした。
自身の心中が整理されれば、必ず川か薄暗い峠道が現れる。
そのどちらでもよいから、自身の進むべき道を進もう。
ここで覚醒。
最近、気が付いたことがある。
神社やお寺などで「霊気の流れ」のある所に近づくと、その流れに触れることで感覚が鋭敏になるから、訪れれば訪れるほど幽霊を感じやすくなる。声を聞いたり、気配を察知したりするわけだが、これはもの凄く煩わしい。
また、逆にこの「霊気の流れ」から遠ざかると、逆の効果が生まれ、あまりあの世を身近に感じなくなる。
身の回りの幽霊の気配が分からなくなる。
なるほど、実にリーズナブルな話で、普通の人と同じくらいの頻度で霊場を訪れている分には、あまり気色悪さを感じないで済むということだ。
思わず、「俺の言動を見て、『ちょっとイカレてる』と思う人は多いだろうな」と思った。
あの世の実態を知らぬのだから、それも仕方ない。ある意味では、自分でもそう思う。
酷い時には、他人の後ろにどんな奴が取り憑いているか、何となく分かることがある。
肩に掛かる手などを目視したりする。
一方、霊気から遠ざかっていれば、ある程度鈍感になり、あまりあの世を感じなくて済む。
ところが、こういった普通の生活にも難点がある。
今はあまりあの世を見聞きせずに済む状態だが、自分の死期がどれくらいの位置にあるのかが、よく分からなくなって来た。
身体の自覚症状のことではなく、「気配」のことだ。あの世が近くなった人間の周りには、必ず幽霊が山ほどたかって来る。このため、幽霊の近さは一定の物差しになる。
これを知ることで、防御の手を先んじて打てるのだが、感覚が鈍くなっていると、肩に乗られたときの、あの独特の「嫌な気配」さえも感じなくなるように思う。
かたや夢の方では、あの世に関わる夢を観る機会が増える。
何事にも一長一短があるようだ。
ま、回数を減らしつつ、ゼロにならぬ程度に保持するのがよいということだ。