日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎後ろに座る人

後ろに座る人

 常識的な人から見ると、「変人の語る世迷いごと」なので、怪談やホラー話が嫌いな人はここから先は読まぬように。

 

 つい数週間前までは「まったく息が吐けぬ」状態で、まさに「死に間際」だったのだが、どうやら長い綱渡りの末に、「たまたま」この世の側に落ちた。

 毎年、「俺はもうダメかも」と思うくらい具合が悪くなる時があるが、今回は心底より死を確信した。

 死に間際になると、幽霊が大挙して「半死人(私)」を見に来るのだが、ぼーっと立っている者が林立していることがあった。

 こういうのも「お迎え」の一種だし、加えて数が多いから、諦めも付く。起きられる時には、文字通りの「死に支度」をしていた。

 ちなみに「林立する人影」は、生きている者と全く同じ質感がある。手を伸ばせば触れそうだ。

 あの世関連の出来事では、「自分の五感を疑う」のは必須なのだが、心神耗弱で見える幻覚とは違うようだ。

 幸い、今回もこの世の側に落ちたが、「死に間際」の状態でいるのは、もはや今後も変わらぬのではないかと思う。

 簡単に言えば、今後は日常的に目にするようになるということかもしれん。

 

 昨夜、圏央道を走行中に、何気なくミラーで後ろを見ると、後部座席に「誰か」が乗っていた。

 「うへへ。こいつらは」

 ちなみに、「コイツ」ではなく「こいつら」、すなわち二人分だ。

 しかも前に見たことがある。

 左後ろのは、昨日、ふと思い出した三年前の「看護師」だ。

 神社の境内に「看護師」がいるのは少し奇異な状況だった。

 「病院に縁がある者と言えば、俺がその筆頭だ。コイツはもしかして俺が連れて歩いているヤツでは」

 そんな風に思ったのだが、まさか後ろに乗っているとは。

 不意に思い出すのも当然だ。思い出したのではなく、思い出されたということだ。

 右後ろのはこれまで見たことが無い。

 

 平坦に書くが、やっぱり気が動転しており、ハンドル操作を誤りそうになる。ブレーキを踏んだり、車を路肩に寄せたくなる。

 そういうのが最もダメな対応だ。

 理由なく急ブレーキを踏んだら、後ろの車に追突されるかもしれぬ。ちょっとしたハンドル操作の手違いで、隣の車に接触して大事故に至る。

 仕方なく、叱り飛ばすことにした。

 「お前ら。これは俺の車だ。何で勝手に乗っている。驚かすんじゃねー」と、説教を始めた。

 世間には、道を歩きながらブツブツと「誰か」に話しかける者がいるが、あれとそっくりな振る舞いだ。

(頭のどこかで「あれはこういうことだったか」と納得した。他の者には見えぬ誰かに、実際に話し掛けていたわけだ。)

 あちら側からすると、人が幽霊を見て「恐怖心を覚える」のは、ごく普通の反応だが、「叱られる」のは少し勝手が違うらしい。程なく姿が消えた。

 ま、誰でもそうだ。私だって、家人がグチグチと小言を始めれば、すぐにその場を立って自分の部屋に行く。

 

 慣れて来たようでも、その場に立つとやはりかなり退く。

 どんよりと空気が重いのと、何か音のようなものが出ているせいだと思う。可聴域の限界スレスレ、または少し外の「ジジジジ」みたいな音だ。

 いつも「亡者の群れ」が後をついて来る気がしているので、背後に気配があるのも仕方がないとは思う。

 私自身が「死に間際」に達しているのなら尚更だ。

 「お迎え」と最初に会ってから、複数年生きた者は極めてレアだから、この先は未知の領域だ。

 ちなみに、自慢げに吹聴しているわけではないので念の為。

 棺桶に足を突っ込んでいる者は、他人の眼(考え)などどうでもよい。勝手に受け止めればいい。

 あの看護師は自死した者で、念で凝り固まっているから、もの凄く気色が悪い。

 今、色んな場所に体験談を記すのは、専ら子どもたちのためだ。

 子どもらにはいずれ同じ経験をする者が出るだろうから、対処法のヒントになればよい。

 

 一方、「誰でも死後に幽霊になるステップを必ず通る」ことと、「死に間際には、向こう側の者がこぞって見に来る」ことには、例外はない。多くの者はその時になり、真実と現実を知る筈だが、もはやそれを語る相手はいない。

後で思い出したが、看護師でない方は、この時の「髪を真ん中で分けた女」ではないかと思う。