日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「黒い女」について

令和三年二月二十八日撮影。神社の室内外に現れた「黒い女」の姿。

◎「黒い女」について

 N湖岸に立っていた半透明の女は、黒い服を着ていた。これは肉眼でも割と見えていた。まるっきり映画の「プレデター」の状態なので、よほど注意深く見なければ目に留まらぬと思う。

 私はその点、「とことん注意して 仔細を観察する」性格だ。

 ま、見えずとも声が聞こえるわけだが、家人も私同様に「声が聞こえる」と言うので、逆に安心した。私の気が変になったわけではないからだ。

 同じ悩みを抱える者は割といる筈だが、自分の見ているものが、果たして現実にそこにいるものなのか、単に自分が思い描いた妄想なのか、その違いがよく分からない。

 妄想であれば、何も起きぬし実害は無いから放置して良い。だが、現実にそこにいた場合は、自分に関わろうとして来られると後の対処が面倒になったりする。

 そこで、こういう場合は「そこに何かがいる」ことを前提として行動することになる。これはリスク回避のための効率的な考え方だ。

 

 幽霊は相手を選んで働き掛ける性質がある。N湖の場合、声をかけたい対象は専ら私だと分かっているので、家人に「黒い女」について説明したことはない。私と同じように見えていれば別だが、家人の眼には留まらないようで、それならそれで気付かぬ方が無難だ。

 「何だか、どこからか話し声が聞こえる」程度なら、放置しても問題はない。

 一方、私は性格的についまじまじと見てしまう。

 こちらが気を付けて見るので、相手は「自分が見られている」と気付くようだ。「あの世」は主観的に構成されているから、幽霊は「その時の自分の感情」に埋没している。

 幽霊の心中?では、存在しているのは己だけしかない。

 ところが、別の自我の存在に気付くことで、ほんの少し第三者的な視角が生まれる。 

 そのことで、幾らか客観視できるようになるのか、大急ぎでその相手に走り寄って来る。

 何か月目かは忘れたが、湖岸の「黒い女」が上を見上げたので、「察知された」と気付いた。

 それがこの場所で具体的な供養を始めるきっかけになった。直接的には、「女と距離を置く」ためで、そうしないと何時までも後をついてくる。

 実際、後に神社の境内で撮影した画像に「黒い女」の影が現れたのだが、それはN湖岸にいた女のシルエットによく似ている。

 

 幽霊は普通に人間の姿をしていることが多いのだが、ただの黒い人影だけのこともある。これは赤外線が出ていない・反射していない状態だ。

 どういう物理的な要因があるのかは、今のところまったく分からない。

 喜怒哀楽の感情をまったく感じさせぬので、人間から遠い存在になっている。

 秋冬の、寒く乾燥した季節には、夕方、道端によく立っている。

 

追記)時々、後部座席に座っているのも、この手の黒い人影だ。バックミラー(鏡)には映らぬのだが、直接顔を向けると人型のシルエットが椅子に座っている。

 疑いなく「生きた人ではない」と思うのは、体が半透明で、向こう側の景色が透けて見えることによる。生きた人の影なら光が透過することはない。

 

追記2)あの世に関する記録を残すことの意味は「死ぬ間際の景色」の情報を同類の者(息子を含む)に伝えるためだ。

 余り快いものではないのだが、「予兆」に関する内容があれば、死期を先延ばしにするために使えるかもしれん。

 実際、役立っているところもあれば、引き換えにしているところもある気がする。

 限界もしくは寿命みたいなものがあり、それに抗すると、あれこれ不都合が起きるようだ。

 「この世の者ではない」者に時々接するが、もはや自分があちら側にかなり近い立場であると感じる。

 

 最もやりくりが大変なのは、日々の暮らしに希望を見出すことだ。時々、「もうそろそろ死にたい」と思うことがある。