日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「絵銭にまつわるあれこれ」付記

◎古貨幣迷宮事件簿 「絵銭にまつわるあれこれ」付記

 一部の「味のある絵銭」を採録する。

 同型の品をほとんど見かけぬから、製造枚数自体が少なかったということだろう。

 通常、土産物としての注文であれば、せいぜい千枚の桁までで、数百枚のこともあっただろうと思われる。ニーズ自体が大きくないためだ。

 北奥には「手作り感」の顕著な絵銭が数多く存在し、いまだ見たことのない品がどんどん出て来る。存在状況がそのまま背景に繋がるので、新規発見時の情報を書き留めることが重要だ。「絵銭はあまり動かない」ことを念頭に置くべきだ。

 「ウブ出し」の重要さは、通貨と絵銭はまるで異なる。

 

追記「庶民のこころ」

 幕末明治初め頃に、北奥では様々な絵銭が作られた。絵銭は信仰をかたちにしたもので、神社寺社の周辺で「お守り」として売られた。この風習は今も引き継がれており、「富銭」を護符として販売しているところが結構ある。

 当時は主要な交通手段が馬だったから、馬が身近な存在で、人の住む母屋に厩が連結していることも多かった。

 馬を大切にする気持ちが強かったので、馬と「厩の守り神」とされた猿とを意匠とする絵銭が多く作られた。

 と言っても、絵銭のニーズはお守り用だから、一度に作る製造枚数は多くとも千枚の範囲だったろう。

 

 最初の「猿駒引」の絵銭は、江刺地方、すなわち仙台領北部で作られたものと推定される。

 二枚目は梅と松の下に天神さまを配した絵銭で、同様の絵銭は全国にある。これは八戸地方で、木型の判子を作り、これを鋳型に直接押して作成したものだ。

 周知のとおり、天神さまは昔も今も「学業の神さま」だ。勉学の成就が開運に繋がるという意識は昔からあった。

 粗雑なつくりなのだが、かえってそれが庶民の願いなどを感じさせるものとなっている。