日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「年末盆回しの品評 その4 栗林大型隆平通寶」

◎古貨幣迷宮事件簿 「年末盆回しの品評 その4」

 なかなか手が回らず、一週間前に整理した品について、ようやく書ける状況になっている。

X006 栗林大型隆平通寶

 品物自体は前にも紹介したことがあり、誰もピンと来ないからこれまで引き取り手が無かった。

 ま、これまでにオークションにいく度か似たような大型皇朝銭の母銭が出品されたことがあり、判断が付かなかったのだろうと思う。

 繰り返しになるが、このサイズの皇朝銭や永楽銭などは、古貨幣の吉語に着目したもので、調度品用途の品、すなわち土瓶敷や釜敷になる。これよりサイズが大きくなると、飾り物になる。

 なぜ古銭をモチーフにしたかその理由は、「神さまを土瓶の尻にしくことが許されぬから」ということで、不敬を犯さぬよう縁起の良い言葉(吉語)を採用した。

 母銭を幾つか実見したことがあるが、時代がまったく分からなかった。資料が無いことに加え、母銭はきれいで時代色も薄い。

 それもその筈で、土瓶敷、釜敷(以後「釜敷」と総称す)は明治以降、大正昭和も作られている。美銭ほど最近の出来である可能性が高くなる。

 ただ、藩政期から銅鉄の釜敷は作成されているから、アンティークに類する品も存在することになる。そして、鋳銭に関連する品も必ずある。

 『南部藩銭譜』など戦前の記録にもあるし、『南部貨幣史』にも掲載がある。

 そうなると、時代のある古鋳品を探せるかどうかがテーマのひとつになる。

 これを解く糸口が、製作すなわち作り方だ。

 前回、「寛永銭の鋳所を確認するには、絵銭の製作を見ることが役立つ」と記したが、もし銭座固有の寛永銭の母銭や絵銭のつくり方と同一の製法で作っている品があれば、そこを手掛かりに鋳所に近付ける。

 

 この品は、地元古銭会の役(副)を担っている時に、当時会長のAさんから譲って貰ったものだ。Aさんが一関の骨董市で買い入れた品で、元は農家の小屋の道具箱に入っていた品だとか。概ね十五年くらい前だと思う。

 打ち合わせでAさん宅を伺った時に、「こういうのが出た。買ってって」と見せてくれたので、その場で代金を払って求めた。

 場所が場所だけに、「銭座製の可能性がある」と見たわけだが、虎銭と照合すると、地金、輪側の鑢痕ともぴったりと正確に一致していた。

 暗所に仕舞われていたのか、少し黄味を帯びていたので、机に置いていると、数年で真っ赤な栗林色に古色が付いた。ま、十円青銅貨の色変を想像すれば、それとほぼ同じ変化だ。

 輪側の鑢痕(線条痕)は横鑢が入っているので、浄法寺銭とは違う。この辺を言葉で記すと、文字で覚える横着者が多いので、詳細は書かない。工法は基本的なラインと、個別な対応の二つの流れがあり、ケースによる。

 私や地元の先輩は、ひと目で「これは栗林銭だね」で納得できたのだが、どうやら見当が付かぬ人が大半らしい。

 ま、それも仕方がない。そもそも孫引きを読んであれこれ言うのに、『岩手に於ける鋳銭』を一度も読んだことが無いひとばかりだ。読んでないのに、先輩のこれまた読んでいない人の銭評を鵜呑みにして、自分に都合の良い解釈をする。

 これからも執拗にこれを言うし、今後はダメな品は「あれは誰それが作ったもの」と証拠を上げて指摘する。ま、この後、古銭界には立ち入らぬので、安心することだ。

 ちなみに、これを悪口と思うなら、そこまで。「よくなれ」と思って助言しているつもりだ(先輩に倣って)。

 「浄法寺銭ではなく栗林銭だ」というところで首を捻っているようでは、南部銭の理解はほど遠いと思う。

 たぶん、宮福蔵作の方がよっぽど本物に見えていると思う。きれいで立派だったりするが、銅銭は基本的に母銭だから「母銭として大量の鋳銭(この場合は型取り)に耐えられるか」という視点で眺める必要がある。

 ま、この品の場合は調度品で、実用を目的とするものだ。だが古銭型で風格があるので、古貨幣とアンティークの境界線上に立っている。

追記)銭座の規模が一千五百人とすると、その調度品として作ったなら、製造枚数は百枚から二百枚程度になる。実際に使用された品は、戦後には確認されていないと思う。

 鋳浚ってあるので、場合によってはさらにこれを型取りした品があるのかもしれぬ。

 その場合、鉄の場合は裏面に鼎型の足がつくので、子も銅製ということ。

 これで首を捻るようだと、「栗林銭が分からないのだ」と見なされる。このため詳細な説明をしたことは殆どない。これは「説明しても意味がない」ということだ。

 

 注記)いつも通り、推敲も校正もしない一発書き殴り。失念や記憶違いもあると思う。私にはあまり時間が無いので致し方なし。