日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌「悲喜交々」11/29 艦長の秘密

病棟日誌「悲喜交々」11/29 艦長の秘密

 火曜は通院日。この日の視聴ドラマは『スタートレックピカード』の第2シーズン。

 私は「トレッキー」ではないのに、ピカード艦長のシリーズをよく観る。旧シリーズ(「新スタートレック」?)の時もそうだった。

 あれから二十年くらい経つのに、艦長の風貌は大して変わらない。ということは、ジーサンの風貌をしていても、前の艦長は「若かった」ということだ。四十台かせいぜい五十歳くらいで演じていたことになる。

 やはりハゲはどうしても年長に見える。

 

 「特に好きというわけでもないのに何でこの艦長のシリーズだけ観るのだろう」

 黒人の女艦長を主役とする別のシリーズもやっているのに、そっちは観ない。

 この日はようやくその理由に気が付いた。

 「なるほど。ピカード艦長は俺の祖父さんにそっくりだ」

 ハゲ頭で顔のつくりなども「生き写し」の次元だ。

 艦長と祖父で違うのは、祖父はひたすら寡黙で、多くを語らなかったということだけ。

 

 戦前、祖父は妻(祖母)を早くに失くし、息子三人を育てるのに、散々苦労したという。祖父が亡くなってから何年も後になり、初めてそれを父から聞いた。

 祖父は農家の「オンズカス(次三男など後継ぎでない男児)」で、要するに「要らん子」だった。

 よって長じると農地の外に追いやられた格好になった。実際、生家から数キロ離れた地に家だけをあてがって貰った。

 戦争が始まると、働きに出ようにも、幼児を家に置いて出るわけには行かず、かなり困窮した。常時子ども三人を従えて出来る仕事しか出来なかったので、姫神山の麓で炭を焼いたりしたこともあったらしい。

 子どもたちが長じると、ようやく手が掛からなくなり、戦後は少し楽になった。父が商売を始め、それが軌道に乗り始めると、祖父は釣りに没頭するようになった。

 孫の私が憶えているのは、毎日、早朝から釣りに出掛ける祖父の姿だけだ。

 祖父が亡くなったのは、私が小五の時で三月の半ば。当時は今より寒かったから、雪が降っていた記憶がある。

 生前は祖父のことをまったく理解できなかったが、親戚や知人から祖父の思い出話を聞き、少しずつ人間像が伝わって来た。

 孫(私)が小学校で「げき」に出たり、相撲大会に出たりする時には、必ずそれを観に来たらしい。祖父は運転が出来なかったし、自転車にも乗らなかったから、会場まで歩いて来た。毎日、五キロ十キロの道のりを歩いて釣りに行っていたから、長い距離を歩くのは全然平気だったらしい。

 祖父は孫の姿を涙を流しながら観ていたそうだ。

 言葉にも表情にも表さぬが、祖父は祖父なりに家族を愛してくれていたのだった。

 小学生の私はそんなことはまるで知らなかった。

 

 祖父は「家族に迷惑をかけぬように、死ぬ時は三日で死ぬ」と言っていたらしいが、その言葉の通り、床から起きられなくなって三日後には息を引き取った。

 孫の私は、寡黙でもないし、嘘八百だのブラフだのは平気で吐き散らす。全然、似ていないのだが、五十歳の時には「既にツルッパゲだった」という祖父と髪の毛の量だけは似ている。

 

 ピカード艦長も割とペラペラ話す方だ。

 祖父の人物像とはまるで似ていないが、風貌だけは「生き写し」ほど似ている。

 母も亡くなる当日まで自分の足でトイレに行っていたわけだし、私も祖父や母のように「歩けなくなったら、三日以内に去ろう」と思う。