◎幽霊が人に寄り憑く時
幽霊は他の幽霊を取り込んだり、人の心の中に入り込んだりする。
この主な目的は「自我の強化」で、自意識を強くするために、他の自我を自分の中に取り込もうとする行為だ。死んで幽体だけの存在になると、五感で自分を確認することが出来なくなるから、次第に自我自意識は薄れる。放置すれば、自我が崩壊し、消滅してしまうわけだが、これは魂の死を意味するから、それを回避するために、他の幽霊を利用したり、生きた人間の心に入り込む。
生きていても死んでいても、「自分という存在が消えてしまうのは怖ろしい」ことに変わりはない。
悪縁(霊)が喰らうのは主に他の幽霊で、猛禽類が獲物を見る目つきで他の幽霊を見ていることがある。弱い者なら簡単に取り込むことが可能だが、自我の強化にはあまり役立たない。
かたや、生きている人間(生者)には肉体があり、これが壁になり、すぐには心の中に入り込むことが出来ない。心に入り込むには、それなりのステップが必要になる。
1)実体化:元々、幽界は現実世界に重なって存在するガス状もしくは霧状の物質だ。ほとんど目に見えぬから、生者がその存在を意識するのは困難だ。これは相手側にとっても同じで、自身の状態を生者に近寄せる必要が生じる。最初に起きるのは、人間のかたちに部分的、全体的にまとまるという変化だ。
2)取り憑き(憑依):生者の心を感じ取り、何らかの接点があれば、幽霊はその相手に近づく。相手の体に手をかけ、のしかかる。この時点で、幽霊は、まだ実体化した時の姿を取っている。
3)合体:幽霊の側から見ると、すんなりと心の中に入り込めるわけではなく、生者の心に同調する、あるいはその相手の波長に合わせる工夫が必要になる。このため、幽霊は入り込もうとする生者の姿に化けようとする。
4)同化:首尾よく心の中に入り込むことが出来たら、今度は自身の考えや感じ方を吹き込み、生者の心を支配しようとする。そもそも、心の中に入り込めたのは、同じような思考や感じ方をしていたからなので、同調し共鳴することで、心が同一化し一体化する。この時、幽霊の本来の目的である「自我の強化」が達成される。
概ね以上はただの「お話」だ。この手のことを口先だけで語る者は幾らでもいる。
これを知見として確からしいものにするためには、実証を積み重ねる必要がある。
具体例を見てみると、次の画像は令和元年の九月に撮影したものだ。ある温泉施設の玄関で撮影したが、画像の隅のガラスに映る私の姿に違和感がある。
そこで画像を拡大してみたのだが、私がカメラを構える位置には、私の顔が無く、後ろに丸メガネの小太りの男が立っていた。私の肩に手を置いているのだが、私とは似ても似つかぬ別人の顔だ。私の顔の位置は、本来、フラッシュの真後ろにある筈で、実際にうっすらと顔のかたちが残っている。
ポイントはふたつある。
イ)男の風体は、かなり私に似せているが、細部が違うこと。顔や服が微妙に別のものだ。
ロ)私は白っぽい着物のようなものを身に着けている。浴衣か湯着のようだ。
「幽霊がその場にいる人の風体を真似る」傾向については、既知の事実として承知していたので、私に化けようとする男については、何ら不思議には思わぬが、「湯着」の意味が長らく分からなかった。
そこで、改めてこの近辺の画像を点検してみる。
次が上の画像の三四分前のものになる。
これまでは、この二枚の「あの世画像」は別々の性質のものとして認識していたのだが、どうやら繋がっていたようだ。
ここでは、正面に立つ私の姿を撮影しているが、扉の中は待合スペースになっており、長椅子が置かれている。ここに人の姿は無いから、室内のすくなくとも五㍍かそこらあたりまでには人がいないことが分かる。
だが、私の左肘のところには、老人の顔が映っている。
そしてその老人が「湯着を着ている」。
画像を撮影した順番は、こちらが先で、丸メガネの男の画像はその後だ。
もっとも辻褄の合う説明は、湯着の老人が私と重なっていた、ということだろう。
撮影当時は知らなかったが、帰宅してから、この場所について調べてみると、何年か前に事故が起き、ここで数人の方が亡くなっていた。
不慮の死を迎えた者が死に間際の状態から抜け出せぬままでいることはよくある。
そこで、三日後に同じ場所に行き、供養を施し、「寺か神社を回るから、そこで供養して貰えばよい」と告げた。
行く度かそれを繰り返したが、その後は異変が起きなくなった。
もはやこの温泉施設では異変が起きぬ筈だ。私と私の相棒である「御堂さま」でここは浄化したので、ひとまず障りが生じることはないと思う。
状況を整理すると下記の通りになる。
〇老人の幽霊が私(と相棒)を見付け、助けを求めた。
〇私に乗ってこの地を離れようとする時に、別の幽霊が私に寄り憑こうとした。一人で二度美味しいのだから(私と老人)、寄り憑きたくなる。
そういう状況ではないかと思う。
もちろん、因果めいたストーリーは、総て想像や妄想の範囲になる。いわゆる「霊感」は基本的に単なる想像や妄想に過ぎない。
確認出来ることは、「私」と「老人の霊」、「私に化けようとした霊」、「私の相棒(御堂さま)」がその場にいた、ということだ。
御堂さまの姿については、これまでも幾度か紹介して来たとおり。
私に左手は二本無いから、中央の手は誰か別人の手だということになる。
この世にもあの世にも「守護霊」のようなものは存在しないのだが、仲間のようなものはいる。手を出して助けたりはせず、あくまで本人の意志に任せるのだが、それとなく助言してくれる時があるようだ。
私にはもう一人、私が「お師匠さま」と呼ぶ男の幽霊仲間がいて、時々、夢の中で道を諭す。
追記)昔の人は「幽霊には足が無い」と記していたが、この御堂さまにも足が無い。
ちなみに、足はあることの方が多いと思う。