日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎1グラムの違い

◎1グラムの違い

 「あの世」的な異変を見取るうえで、最も当てにならぬのが視覚だ。

 そもそも、「あの世(幽界)」は人間の可視域に跨って存在しており、多くの場合外にあるから、あまりよく見えない。このため、見えるかどうかは判断の尺度にならない。

 私の場合も例外ではなく、半分くらいは判断ミスをしている。

 だが目的は好奇心や研究心からではなく、「危険回避」だ。

 例えば、草叢の中にいるかもしれぬ何かは子犬かもしれんし、あるいはハイエナかもしれん。この場合、「ハイエナだったら」と前提として、その対処法を頭の隅に置けば、実際にハイエナだった場合に危険を回避する公算が高くなる。恐れるのではなく、対処を念頭に置くということだ。何せ、私は実際に「お迎え(死神)」を見ており、それがまた再び現れるであろうことも知っている。そればかりか、悪意を持って寄り付く幽霊に一年間も悩まされたばかりだ。

 視覚的なもの、要するに「見えるかどうか」は「かもしれぬ」の素材程度で良い。

 繰り返すが、人間の可視域では、いずれにせよ「見えぬ」領域にあるから、見えぬものが見えたかどうかはあまり意味がない。

 

 次の判断材料は「音」だ。具体的なあの世からの働きかけを示す音とは「声」のことになる。

 人気のないところで声が聞こえれば、「たまたま」の他に何かしらの「働きかけ」があるのではないかと疑う。聴覚で感じる異変は、幾らか視覚より精度が高いのだが、これは概ね可聴域の音だからだろう。

 N湖では、かつて数百メートル四方に人がいない時に、あれやこれやと話す声が聞こえたが、これは私だけでなく、家人など別の者の耳にも同じように届いた。

 「かやかや」という小さな声なので、あまり気にならぬから、実際にはこの世のいたるところに響いているのかもしれん。多くの人が気付かぬだけ。

 しかしま、聴覚にも「そら耳」のようなののがあり、これにも「たまたま」そう聞こえたというケースがあるだろう。

 

 「あの世」的異変について、最も頼りになるのは触覚だ。これに気付いたのは、つい最近のことで、ほぼ一年前のことになる。

 繰り返し書いて来たが、稲荷の神域にうっかり足を踏み入れた際に、まるで「蜘蛛の糸が頭にかかったような感触」を覚えた。それ以後、集中して不審事が起きるようになったので、境目がはっきりしている。

 頭にかかれば、手で確認出来る筈だが、実際には存在しない。蜘蛛の糸が頭にかかるためには巣が必要で、その蜘蛛の巣をクモが張るためには、すぐ傍に樹木や建物が必要だ。これが無いところには、現実の「蜘蛛の巣」の存在を裏付ける物証がなくなる。

 ついひと月前には、八幡神社の境内で「私に寄り掛かる女」の姿を撮影した。膝丈のスカートを穿いた女であることが画像でも確認出来たが、この時にも、少し前に別の神社を出た時に「頭に蜘蛛の糸がかかった」。

 これに類することは過去にも幾度かあったが、それまでは現実の蜘蛛の糸か、「気のせい」だと思っていた。蜘蛛の糸一本の重さは、恐らく1グラムに満たぬ程度だから、ほんの些細な触感になる。

 だが、この触感に気が付き始めると、集中して注意を払うようになる。

 よく観察すると、どうやら蜘蛛の糸のパターンだけではないようだ。

 肩の上に、小さい木の葉が落ちて来る感覚に近いこともある。

 

 十二日は画像(視覚)では殆ど分らぬのだが、私には確信のある部分がある。

 画像の中に「ここでは背後から手の上に男の手が乗っている」と記した箇所があるのだが、これは視覚的なことを言うのではなく、触感のことを言っている。

 実際に軽く何かが乗った感触があったからそのことを言うのだ。

 ウェブ画像でどこまで見えるかどうかは分からぬが、よく見るとこの時の私の肌の部分は、私の後ろにある草叢の様子が透けて見えている。

 「この世」と「あの世」は波長的にはプラス:マイナスの関係にあり、これが上手く重なると、姿が消失してしまう。これもこれまで幾度か経験した通りだ。

 ま、どう見えるかは好奇心の範囲でどうでもよい。問題は何を訴えているのか、どのように関わろうとしているのかということになる。

 

 この日は幾度か「1ミリグラムの重さ」を体感したが、まったく問題はない。

 何故ならその場で、私は「出られぬなら、私について来るとよい」と伝えていたから、それに応じたというだけのことだ。

 護岸工事により、環境がかなり変わったので、あの地がどういう変化をするのかを注視する必要があると思う。結節(交流)点が完全に消え、何事も起きぬ普通の景色になるのか、あるいは人力を加えたことで、また騒がしくなるのか。

 

 画像自体は殆どの人が確認出来ぬと思う。二枚目で「視線が向いている」と思うのは、三百人のうち五人くらいのようだ。

 私自身はこの一年の経験で、それが危機かどうかの判断が容易につくようになった。

 もっとも望ましい結末は、常に「総ての危惧が取り越し苦労で終わること」であるのは改めて言うまでもない。

 ただの妄想ほど素敵なものはない。何故ならそうであれば、その後何も起きぬからだ。