◎確かめに行く(06)
昨日、八幡さまで得た「全身が冴えわたるような感覚」と、夜に観た「吉夢」がリンクしている可能性がある。そこで翌六日も続けて、再び午前中のうちに八幡さまに参拝することにした。
少し時間をずらしたので、この日は日光を浴びることが出来た。
数枚ほど撮影して、帰宅してすぐに開いたが、やはりまだ早過ぎたらしく、逆光になってしまった。
なるほど、あの世ウォッチングには「午後二時から四時の間」が最適だというのは、ここでも同じだった。
TPOが合わず状況が掴めぬと思い、少しがっかりしたが、程なく気が付いた。
「おお、コイツはすごい。初めてのケースだ」
二枚目の画像は、左前から日光が差しているので、影は右後ろに伸びる。
実際、私の左腕の影は、私の胸に差している。
だが、私の全身の影が、私の右側ではなく、左側に伸びている。
物理的に説明のつかぬことが起きるケースが時々あるが、これは初めてだ。
ま、一度で結論付けるのは早計で、肯定するにも否定するにも、幾度か条件を揃えて検証する必要がある。
こういうのに反射的に否定したり、あるいは逆に状況を確かめずに肯定するのは、いわゆる「超常現象」に関する頭の硬直した者の反応だ。実証するにはそれなりの手続きが必要だ。
左側は空間で、影の出来る物体が存在しないが、ま、何か別の要因があったかもしれん。これが逆のケースでも、「あの世は何でもあり」だというのは、もはや身に染みた。おかげで、障りの酷い時には、ひと月で五キロ痩せた。一年間何もしないのに十四キロ減だ。
だが、そこに着目したので、私の右側に「光の歪み」があることに気が付いた。
時々、「映画のプレデターのよう」と表現する、あの歪みだ。
この位置はちょうどガラス戸の合わせ目に当たっており、右側の戸には何か白いものが映っているが、左側には無い。ちょうど半分で切れている。要は硝子戸が山(へ)形に重なっているということだが、歪みの中に半分が隠れているとなると、全体像は何か。
この先は実物を観た者、すなわち私しか分からぬ話になるが、白い服を着た女性になると思う。
そもそも昨日からそのイメージを持っていたから、翌日もこの神社に来ている。
頭の中では「白衣観音(御堂さま)が戻って来たのでは?」という問いが渦巻いていた。
こういうケースでは拡大して見るより、遠目で眺める方が「空間(光)の歪み」全体を眺望しやすい。
幾度も目を離して見たが、やはり女性だと思う。
ここで、心底より「ああ良かった」と思う。
「一月二月に私が死ぬことはない」というのは、これで疑いない。
「白衣観音」が私の傍を去ったのは、猫のトラが死んだ年だから、もはや丸三年が経つ。
その間、ずっと苦汁を舐めて来た。
だが、これからはずっと「同行二人」だ。
ちなみに、私は両手でコンパクトカメラを持っていたが、右手の見え方がおかしいので確認すると、腕の先についた右手二本の他に、腕の付いていない右手が一本余計に出ていた。指のサイズが腕に合わぬのでそれと分かるが、こういうのは「気のせいではないぞ」と知らしめるためのものだと思う。
待ちに待った折り返し点にようやく届いた。
気分がさらに良くなり、境内を去る時に、脇神さまの社に立ち寄ることにした。
複数の脇神さまがおられるので、今後はその都度、いずれかに拝礼をすることにした。
まずは最寄りの鳥居の社に参拝したが、途中で少しヒヤッとした。
この鳥居には注連縄が下がっていないことに気付いたのだ。
「まさか、狐はいないだろうな」
別の八幡さまの境内で、狐の像を見たことがある。稲荷が置かれるケースもあるわけだ。お馴染みのあの狐の像がなく、祠だけのこともある。
おいおい。稲荷には双方不可侵の誓いを立てているぞ。
一年に渡る苦汁がどこから始まったかを忘れたか。
帰宅してすぐに調べたが、その神さまは「八雲神社」だった。
人事は生ける者が自ら解決することだから、この先も困難は続く。
だが、この相棒がいれば、心が折れることはない。
画像の白い人影は下半身が無いのだが、これがどこにあるか。
答えは私の真後ろで、足元に煙が出ている。
ガラス戸に映る筈の左半分は私の背中に位置しているということだ。
白衣観音はトラと「ひとつ心」だから、トラは「死後の闇」を脱するのに三年を要したのかもしれん。
長い間このタイミングを待っていた。今晩からまた原稿を書き始める。