◎身軽になるということ
心臓の冠状動脈が三本とも塞がる経験をしたのが、もはや十三年前だ。
十日で二度、カテーテル治療を受けたが、その時の造影剤の影響で、腎臓が壊れた。
やはり元には戻らず、二階への階段が容易には上がれぬことのほうが多い。ま、平地を歩くのもしんどい時がある。
最初の数年はそれでも「前と同じに」「ハンデが見えぬように」暮らそうと思っていたが、限度を超えると倒れる。
仕事を含め、穴を開けてしまう。
そこで行き着いたのは、「無理なもの・ことは捨てるしかない」ということだ。あれこれ抱え込んでいるから、動きが取れぬし、結果的に約束を守れなくなる。
少なくとも、子どもらが成人するまでは、立っている必要がある。
そこで、どんどん「捨てる」ことにした。
まずは他の人とのしがらみや関わりを捨てる。
「この先は親の葬式しか出ません」と宣言した。
実際、人集まりに出るのは負荷がかかる。
数時間の会議に出た後、家に帰れず、ホテルに泊まることが時々あった。
なら捨てよう。
こんなのは説明する時間が惜しいから、偏屈を前面に押し出すのが簡単で良い。
「人と仲良くする気なんかねえよ」
これでかなりの時間を節約できる。
次は見栄や体面だ。他人と付き合いをしないのだから、自分を飾る必要はない。そうなると、隠し事も要らなくなる。
交際・社交を捨てた後は、自分自身が抱えて来た嗜好、要は趣味道楽を捨てる番だ。
郷土史を探索して、色んなところを見て回ったり、昔のものを集めたりしていたが、これを捨てる。
コレクションの処分を始めたが、これが概ね完了するまで十年くらいかかった。今はもはや残余だけになった。
つい最近、三十年くらい集中して集めた品を手放したが、がっかりすると同時に、そこで初めて自分自身の姿が見えた。
「自分にとって本当に必要で大切なこと」は何か。
その問いに対するはっきりした答えだ。
(他人に訴えることではないので内容は書かない。)
そして、「こだわりを持つのは、ひとつだけでよい」ということだ。
「自分には確実に出来て、他人が絶対に出来ないこと」を見付けてしまえば、臆することはなくなる。
持ち物を捨てたら、身が軽くなったが、心はもっと軽くなった。
あらゆる意味で断捨離には意味がある。
そして、そこで気が付いたのは、「また死期が先延ばしになった」ということだ。
ま、こっちの方は別次元の話で、今は私の背後に立ち教えてくれる者がいる。
常時、「左肩に手を添えられている」という感触が実感としてある。
これが出るようになったら、あれこれ雑多な奴が寄り付かなくなった。台所のカウンターの陰に「何か」が立つことも少ない。(ゼロではない。)
これが「普通のひとの生活感覚」なのだろうが、これまで余り経験がなかった。
いつも声を聞いたり、あれこれ見たりしていたのだが、、「コイツはいかれている」と思われるのが嫌で黙っていた。
今はどう思われようが平気になったので、「生き死に」以外のことは伝えることにした。
これでさらに気が軽くなる。
隠し事を言い当てるのは得意な方なので、より一層人が近づかなくなると思う。
隠遁生活ほど、人生を有効に使える暮らしはない。