日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎さらに別の状況

さらに別の状況

 私は「死」の向こう側にある真実を追求するために、自分の身の回りで起きた出来事の記録をなるべく事実に忠実に残している。これが不快な人は、このブログを読まぬことだ。

 そもそも私の方が「ネットを通じた交流」を求めてはいない。「受ける」ことには、興味がないので、配慮もしない。その理由は、既に寿命が残り少ないからで、その中で自らの出来ることを探し、戦っているということに過ぎない。

 息子を始め自分と同じ悩みを持つ人がごく少数ながらいるようなので、この記録がそういう人の助けになればよいとは思う。

 とりあえず五人くらいの視線は見えているので、その人たちに向いた記録を残すつもりではいる。

 

 さて、たまたま令和元年の記録を見たわけだが、「白衣の女(私の相棒であり、私にとっては「観音さま」)」の右後方に、別の「女」が映っていた。半袖で、これも白衣を身に着けているが、たぶん看護着で、これと同じ「女」を別のところで見た記憶がある。

 検索すると、同年の秋に撮影した「老女」の幽霊の右奥に、同じ「女」が映っていたようだ。

 最初の画像がO町で撮影したもので、後のがトラの神社での画像だ。その二つを繋ぐものは「私」。

 となると、あの「看護着の女」は「私について来た」ということだ。

 O町ではなく、たぶん、別のところからで、ずっとついていたということだろうと思う。

 理由はやはり「助けて欲しいから」ということ。

 従前なら、「自分には助けられぬから離れてくれ」と祈願するところだが、今は導けるので、今後もご供養を施すことにした。

 

 生き続ける中で「無駄なこと」はひとつもなく、総ての経験が後々に生きて来る。そして、総ての記憶と記録が頭と心の中に刻まれているので、日々を大切に生きることが重要だ。

 

追記)殆どの人には見えぬと思うが、私には自分の後ろの白衣の女(観音)の顔が見える。すごい美人で整っている顔立ちなのだが、やはりもの凄く表情が怖い。

 自分の相棒だとはいえ、少し退く。

 こういうのは見えぬ方が幸いだと思う。

 

追記2)右奥の女性は、かつて性行為を強要されたことがある(要は強姦)。それが、いまだ心に傷となって残っている。

 そのことが死んだ直接の理由(自死)かどうかは分からないが、一年何か月か後だと思う。そんな記憶が見える。

 もちろん、そういう因果を語るストーリーは、想像や妄想に過ぎない。あくまで「そんな感じの感情の揺れを感じる」という範囲だ。

 幽霊は感情だけの存在だから、その感情の揺れを感じ取る(共感。共振する)ことは出来るが、それ以上のものはない。そもそもあの世はこの世の合理性とは別のルールがあるから、この世のルールで推し量ろうとしても不可能だ。

 いつも言うように、霊能力などというものはなく、単に音叉のように幾らか共振する(心情に触れる)ことが可能なだけ。

 もしそれを能力と見なすなら、それは「思い上がり」だ。

 自分を他とは違う能力者のように飾りたいだけの、まったく意味のない文言だ。

 

追記3)最初の画像で、右側の女は、後ろを向いているように見えるが、時々、こちら側(正面)を向く。こういう画像が時間の経過と共に変化するのだが、その都度変化するなら、まだ「揺れ」が響くということだ。すなわち、自我の呪縛を解き放つことが出来ず、まだ幽界に留まっているということだろう。