日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「二月の盆回し品あれこれ」(続)

◎古貨幣迷宮事件簿 「二月の盆回し品あれこれ」(続)

 F03和同枡鍵について「古い品は古寛永の製作に似ている」と記したが、見本になる品があったので掲示する。

 地金の配合や、砂のつくり方がそっくりなので、全体の風貌が近似する。

 輪側の仕上が方が異なるのだが、まず1)製造枚数が違うという要因がある。絵銭は一工期に、銭種ごとに数百枚から多くて千枚程度しか作らず、基本は小数枚ずつ仕上げる。通貨であれば、枚数は何百倍か何千倍で、百万枚の桁に及ぶ。総て流れ作業で、鑢掛けも一度に数百枚ずつ束ねたものを処理する。

 次は、2)製造年代が少し前後したかもしれぬ。通貨であれば横に走らす装置(銭棹を回転させる)が開発されたのは、安政以降になるが、発想の仕方がよりそちらに近いと言える。

 ただし、和同枡鍵の鑢痕が曲線なので、「一枚ずつ砥石の上を手で走らせた」可能性がある。この場合は、研磨法と製造した時代との関連性が無くなるから、詳細な時代測定は難しい。この場合の「時代」とは「技術年代」、すなわち工法のことだ(「時点」ではない)。

 絵銭を作る体制は、町工場規模の少数人でも可能だが、通貨の場合は短期間に大量に製造する生産体制をとるので、職人が千人に及ぶ方が主流だろう。

 金属材と炭の調達が先にあり、それに応じた生産計画を立て、職人を集め、なるべく短期間で作業を終える。その流れの中で、その座(生産体制)のやり方が決まって行く。

 絵銭の難しいところは、そもそも「小規模の工房で作った・作れた」という点だ。

 一方、繰り返し述べて来たように、江戸や大阪など大都市周辺でない限りは、絵銭が広範囲に流動することはない。「蔵から出た」状態を詳細に検分すれば、それ自体が生産地を探る情報になる。貨幣は様々な人の手を介して流動するが、絵銭は「作ったところ」「売られたところ」「持っている人のところ」が「点」として存在する。

 

 さらに、地方にはその土地なりの通貨が作られていたりする。

 冶金職人があちこちに沢山住んでいるわけではないので、鋳銭に際しては、職人を雇い入れる。そうなると、そこで銭座と絵銭工房の接点が生じるかもしれぬ。

 

 F24-26豆板銀は、最近になり書庫の奥から出て来たもので、四十年近く前に入手したものだ。これが三十年くらい前になると、「O氏作」を代表とする複数の豆板作家が様々製造したので、あまり信用が出来なくなる。

 雑銭の会事務局の買い入れで、付き合い買いした品には、鑑定の困難な品があったが、その手のは研究している人に全品を贈呈した。

 この品はそれより前のものだから、割合安心だ。

 江戸期の流通目的の品もあるし、関東でもまだまだ多く蔵に眠っている。

 このジャンルでも、まだまだやれることが残っていると思う。

 古貨幣として、私個人はまったく古金銀に関心が無く、付き合いで買った程度だ。

 今回の下値もテキト-で、「グラム単価120円前後で、あとは状態」による。

 買った時の価格は今より数段高いだろうし、ネットの情報は参考にならない。

 リサイクル屋さんの「怪しい説」が多数流されている。

 ここは年配の収集家となるべく直接的な交流を持ち、教唆を受けるべきだと思う。

 今の収集家が決定的に不利な点は、「古道具屋で店主と何時間も無駄話をする」という機会がもてぬことだ。

 従前はそんな時に、ただの「手の上の金屑」の話を超える広範囲な知識が得られたのだが、もはやそんなのは昭和で終わった話だ。

 文字テキストの情報など、幾ら集めても何の足しにもならない。

 

F27 雑銭

 対面の古銭会であれば、この手の雑銭が盆回しで回る。

 その雰囲気だけでも味わえるように、「取り置き箱」からひと掴みを出して、提供してみる。ま、値の付け方で、「何をどう見ているか」が分かるので、古銭会では時々この手を使った。

 かつては、「知らんふりをして母銭を混ぜて置く」という手も使った。

 もちろん、「そのひととなり」を観察する目的なのだが、ひとの対応は様々だ。

 まずは「気付かぬふりをして安値で買おうとする」。これはごく普通だ。

 「母銭が入ってるよと教える」。こういう善良な人もいる。

 さらに進んで「良い線のところまで、応札を引き上げてくれる」。売り手に酷い損が無く、買い手も得をする水準まで、札入れに参加する。出品者自身がするなら「つり上げ」に近くなるが、縁も所縁も無い人でもソコソコまで付き合う。「三方一両得」ということで、NコインズOさんが座主を務める際には、よくこれを見た。気分がすごく晴れる。

 他には「たぶん、母銭に気付いていないと勝手に憶測し、掌に隠して持ち去る」。

 これも時々いる。遠方の古銭会に出た時に、知人が「見せてくれ」というのでブックを見せたのだが、その人の周りの人まで見て、戻って来た時には穴が出来ていた。

 ものが小さいためか、この手のはよくある。

 でも、「どさくさに紛れてまるごと盗んで行く」。これもいるなあ。ブックごと持ち去る者がいる。普段は最後に確認するが、心臓の具合が悪い時には眼が届かなかったりする。この手のものはそこを見ているわけだが、気付かれていないと思っているのだろうか。ひとを特定して名前が書けるほどだ。

 十代から四十代の若手収集家に対し、繰り返し「古銭収集などはオヤジジイになってからでも出来る。きちんと社会の別の領域で活躍することを考えろ」と言うのは、得手勝手な狭い世界観に陥らぬようになるべきだと思うからだ。

 古貨幣の収集は、ごく間近な骨董の世界からも「一段下」に思われている。

 まずは、そういう評価がどこから来ているのかを知るべきだと思う。

 脱線したが、これが「盆回し」の流れだ。オークションではない。

 

 ついでなので、白状することがひとつある。

 八戸領葛巻鷹巣鷹ノ巣)を何度目かに訪れた時のことだ。

 鷹巣八戸藩の隠し炉とも言うべき密鋳銭座のあった地とされる(葛巻銭)。

 集落の外れから上はすぐに急坂で、4WDでも五十㍍さえ上って行けない。

 このため、歩いて登ってみたわけだが、すぐに草叢でがさがさと音がした。

 身構えると、目の前にカモシカの雄が現れた。

 カモシカは古名を「青獅子」と言うが、顔がでかくて、まるで獅子のようだから、そんな名前だった。

 急だったので、腰を抜かさんばかりに驚いた。

 「これでは熊も出そう」と思ったので、早々に退散したが、帰る道々、あちこちに古銭を撒いた。撒いたのは銅鉄の寛永銭で、一応、祠の周囲だから、供養銭のつもりだ。

 東日本では、色んな神社寺社の境内の隅に、トータルで何千枚も撒いている。

 「子どもが拾えば、歴史に興味を持つだろう」との深い慮り(?)からなのだが、ある意味「ノイズ」でもある。史跡で古銭を拾ったからと言って、それが何かの「しるし」や「証拠」にはならなくなるからだ。

 実際、所沢のY神社の周りにも五六百枚ほど撒いたのだが、「お宝が出る」「拾った」と言う記事が地方紙に出たので、それからは自粛した。

 ま、あちこちの神社で古銭が拾えるという件の「犯人」は私だ。

 葛巻町の役場には、遠縁の者が務めていたので、その人に郷土史家を紹介して貰い、家を訪ねた。町史には記載がなかったようで、その人は鷹巣の銭座のことを知らなかった。贋金の話だから、公的な資料には記載されない。

 そこで、葛巻銭をサンプルとして渡したのだが、ここでも誤謬が生じる恐れがある。

 葛巻にある葛巻銭が「元々、そこにあったものとは限らぬ」ことになるからだ。

 地元の郷土史家が持っていたなら、誰でも「それが葛巻銭だ」と見なす。

 ま、葛巻銭の場合は、概ね「当て外れ」ではないと思うが、発掘して出たり、元々、地元の旧家にあった品ではない。

 町内の雑銭から、目寛見寛類が出たことは一度も無いので、念のため。

 鷹巣で作ったのは背千写し類(正様)のようで、二戸に近いところから、所謂、「葛巻背千」がまとまって差で出ている。

 目寛見寛類は、小笠原白雲居が「葛巻の職人が二戸に移り、そこで作った」と記している(『南部鋳銭考』)。

 

 ちなみに、銭座は鷹巣の一か所にあったわけではなく、多々良山に向けて、「炉を作っては壊して移動し、作っては移動しを繰り返した」ようだ。これはたたら炉が「一度きりで壊す」という特色を持つ製法であることによる。鷹巣から多々良山までは、割と距離があるが、論より証拠で、昔から「たたら山」と呼ばれて来た。

 

注記)一発書き殴りで、推敲や校正をしない。余裕なし。不首尾は多々あると思う。