日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「未勘銭その他」その2 永楽銀銭から粘土型の追究へ

◎古貨幣迷宮事件簿 「未勘銭その他」その2 永楽銀銭から粘土型の追究へ

 少し前に二十年くらい前に「街道筋の古道具屋に永楽銀銭が置いてあった」話を書いた。

 埼玉から群馬、山梨と幹線道路を北西に移動しつつ、古道具屋に立ち寄ったのだが、そのどの店にも永楽銀銭が五六枚ずつ並んでいた。売値が三万円くらいだから、本物扱いで、かつ幾らか安い設定になっている。

 街道筋でボツボツと出ることは有り得ぬから、誰かが置いて回ったと解釈できる。

 骨董会でまとまって出るケースもあるのだが、県境を跨いで集まる会は無いから、こちらの可能性は低い。

 ここからは推測に過ぎぬのだが、道の先には新潟とか周辺国への定期船が行き来する港がある。

 何となく、「やりやがったな」と思った。

 コレクターの多くは、品物がどこからどうやって出たのかを気にしない者が多い。

 「どういう経緯で出たのかを確かめるべき」と記すと、「誰から買ったか」だと思う人が殆どだ。この場合の「誰」とは業者やオークションのことで、用は手の上の視野から一歩も出ていないということ。私が言う「経緯」とは、そういう次元の話ではなく「状況」のことだ。

 「蔵出し」で出たなら、どこの誰と言う家の蔵にあったのか。どういう風に仕舞われていたのか。包んであったなら表書きには何と書いてあったのか。こういう状況について言っている。

 永楽にせよ、天正にせよ、ある一時期にまとまって出たのだが、出所については「蔵出しで出た」としか情報が掴めない。

 蔵出しでまとまって銀銭が出るとしたら、その家は「大名家」だってことではないのか?

 それが十七世紀でも、あるいは時代が下り十八世紀と言う解釈でも、銀は高価だから、銀銭を製造して、そのまま包んでしまうケースは有り得ぬ。

 もし恩賞として貰い受け、家宝として保存してあったなら、それなりの但し書きがある。

 もっとも怪しい説は、天正、文禄、慶長の後で、江戸中期にも作成された、と言う説だ。平成に入ってから出た永楽銀銭には、砂目が見えぬもばかりで、これは銭笵式なら当たり前だが、江戸中期以降の手法ではない。その頃には日本式の砂笵製造法が定着している。皇朝銭と寛永銭を隔てる最大の相違は、型、すなわち「笵」のつくり方がまるで異なる点だ。

 工法を詳細に観察すれば、「いつ作ったか」を特定できぬにせよ、「何時より前の技術ではない」ことは断言できる。横鑢の手動による研磨装置と、グラインダには線条痕に違いがあり、グラインダを使っているなら、「明治中期より後に作られたもの」ということだ。この場合、「より後」であって、それが「明治」なのか「大正」「昭和」を特定するには至らない。とにかく「明治中期より後」で、それはその時点より前には、その装置が存在しなかった、ということによる。

 とりわけ、永楽銀銭であれば、一度だけだが雑銭から拾ったことがある。

 かつて所沢には珍品堂という「がらくた屋」があったが、いつも土産を持ってその店を訪れ、「何か出たらよろしく」と言伝ていた。欲しい物が何も無くても、とりあえず何かしらを買って、「いざと言う時に最初に思い出して貰える」ように心掛けた。

 その成果が出たのは十年のうち三度ほどで、最初は「古金銀角物全揃い」だった。

 興味がまったく無いジャンルだが、「古銭が出たら」と依頼をしていたのは事実なので、こういう場合には引き取るのが筋だ。百万を超えようが、話を持ち掛けたのはこちらなので、これは当然のこと。もし対応しなければ「次」はない。

 その次が「旧家からまとまって出た古銭」銅鉄寛永銭六千枚と天保銭百枚くらいだった。関東の鉄銭は「要らぬ物」の筆頭だ。変わり物がない。

 蔵出しのままの状態なら銅銭を@35円で買えるなら、かなり幸運な方だが、鉄一文銭を@20円はちとしんどい。ま、出た地域(仙台以外)によって、また鉄当四銭なら@35円でも普通ではある。

 だがウブ銭は「蔵に近いほど値が張る」ので、業者もそれなりの金を出している。

 一定の利益が出ないと、やはり「次」はない。買い手が「安く買えればラッキー」と思うのは、ボケナスの考えで、売り手が損をするなら付き合いはそこで最後だ。中間に入る者に損をさせぬ姿勢が肝要だ。また、自分が良くて買うのだから、安かった、高かったと後で愚痴らぬことだ。この世界は買い手が値段を決める。

 この時には、とりあえず穴銭の差を手に取ると、その最初の差に永楽銀銭が混じっていた。思わず「まじかあ」と声が漏れる。奥州の田舎ならともかく、関東の街中でこんなことがあるのか?

 天保銭は本座が数枚だけで、大半が水戸など藩鋳銭だった。曳尾ですら三枚だ。

 驚いたのは、玉塚天保まで混じっていたことだ。銭箱入りのもあったと思うが、その箱には商家の名が記してあったので、合点が行った。

 商家には、商いを通じて変な貨幣が入って来る。私の家も商人だったから、古銭や外国貨が混じることがあった。そういうのは、小箱に入れて取り置くから、変な品が溜まる。

 即座に手付を置き、金融機関に走った。さすがに、鉄銭は@12円にまけて貰ったが、他は言い値通りで、かつ謝礼として少し余計に渡した。

 古銭会の方で、会員に分譲したが、その年は何百品かそこから出したと思う。

 ウブ銭を値踏みする時には、「商家から出た品」が最上位だと思う。かつきれいに括っていない雑銭だ。

 脱線したが、古金銀では処分するのに数十年掛かったが、その欠損は商家の取り置き銭で間に合った。慶長通寶も四五枚出たが、総て寶頂星手だった。

  度々、カステラや南部煎餅を持参して訪れた甲斐があった。

 だが、十年間で「穴銭一括」はこの一度だけで、最後に「どう?」と言われたのが、和同の出土銭だった。四五枚ほどあり、枚単価が七万円くらい。「出土」と言うのがひっかかり、さすがにこの時は買えなかった。

 その当時の私は、埼玉県内で「かつて皇朝銭が数十万枚出土した」ことを知らなかったのだ。大半が和同で、大掛かりな発掘調査が行われたが、不心得者が居て、この件が報道されると、夜間にその発掘現場に行って、掘り返して来る者がいたらしい。 

 銭自体は渡来人が関東に向かう途中で、自国から持って来た文物を銭に替えたもののようだ。よって、浦和から高麗一帯にかけては、和同が出ることがある。

 大体は「昔から家にあった」品ではなく、夜中にくすねて来た品だ。

 一方、和同(和銅)と言えば秩父遺跡だが、秩父ではもちろん出ない。そこでは貨幣を作ってはいないし、そこに誰かが運んでもいないからだ。

 

 この時の「雑銭から拾った永楽銀銭」には背面にきちんと砂目があった。

 少なくとも十七世紀の半ば以降の製法に見えていたが、ここは不確かだ。

 その当時は興味を持たなかったので、すぐに手放したが、ことによると、ノム楽銀銭だったかもしれん。拾った品はとかく軽視しがちだが、取り置けばよかったと思う。

 

 さて、大脱線したが、本題はここからだ。

 街道沿いの永楽銀銭に不信感を得てから何年か後に、八戸目寛見寛の鋳造方法について考察していた。要は「突飛なほど銭径が縮小しているのに、中間移行段階の品が無い」という疑問だ。あの銭種を「原母からあのように作成した」と思うのは、ただの好事家で、貨幣を作ろうとする限り、「難なく使えるように、既存の品に合わせる」ので、あれはあくまで「変化した後」の最終形態になる。

 だが、「鋳写しを繰り返した」という形跡は皆無だ。

 銭径(サイズ)であれこれ言えるのは、彫母から原母までの話で、汎用母を作成する段階では一定枚数を大量に作る。この場合、技術を常に一定に保つことは出来ぬから、製品いぶれが生じる。湯温の違いで縮小径が変わるし、砂型のつくり方でも銭径には影響が出る。

 とりわけ、疑わしいのは砂笵の製造法だ。

 同じ葛巻鷹巣で、背千(正様)と目寛見寛類を同時に作ったと考えるのは、手の上の銭しか見ぬ寝ぼけ収集家で、製法がまるで違う。

 このことについては、既に小笠原白雲居が「葛巻の職人(藤八もしくは藤七)が二戸に移り、そこで藤の実と呼ばれる寛永銭を作った」という類の伝承を記している。

 この通りなら、八戸藩が後押しして銭の鋳造に当たらせた葛巻と違い、二戸の目寛見寛座は純粋な私人による密鋳ということになる。

 砂鉄はふんだんに得られ、木炭の材料となる森林も豊富だ。

 足りぬのは鋳砂で、銭、とりあけ母銭の鋳造にはなるべく純度の高い珪砂が必要だが、この地域では得られない。山砂(珪砂を含む)では、出来上がりが見すぼらしい。

 当地の銭密鋳にあたり、もっとも困ったのは「母銭製作」であったことは疑いない。

 「母銭使用に耐えうる母型を作ること」と「枚数を揃えること」は初期段階での最大の課題だった。

 

 「手持ちの砂では、きれいな母銭が作れない」となったらどうするか。

 もちろん、代替案を考えるわけだが、その選択のひとつが「粘土型」の利用だ。

 粘土は型取りに簡便だし、鋳肌が滑らかになる。一方、数回で壊れることが多いから、大量の鋳銭には向かない。通用銭の段階では使用に耐えぬわけだが、母銭なら数百枚から数千枚もあればよい。

 

 ということで、これを検証するには、「実際に粘土型で作ってみればよい」ということになる。「型による縮小度」と、ついでに「永楽銀銭」についての疑問を掘り下げようという話になった。

 たまたま、家人が所沢の指輪直し職人を訪れたところだったので、その人から溶かし方を聞き、いっとき機器を借りて、自分で製造してみることにした。

 これが画像の品だ。

 粘土で型を採り、これが固まったところで、溶銀を流し込んだ。

 母型は普通の明銭だったが、前後のサイズを比較すると、これほどの違いが出た。

 これだけで「鋳写しを幾度も繰り返して、極端に銭径が縮小した」わけではないことが分かる。

 また、粘土の乾燥のさせ方と、銀の湯温の程度により、かなりのばらつきが出るようだ。素人が溶かしたので、湯温が高すぎたことも、縮小幅を大きくするのに寄与した。

 汎用母銭や通用銭などの大量製造品については、「銭径」だけを取り上げて、何かを言うことは出来ない、ということも分かる。

 よく「大きいから前のもの」「小さいから後出来」という言い方を聞くが、そんなのは全然通用しない。「手の上の銭」を眺めて行っているだけの話で、実際に作ってみれば誤りだと分かる。

 だが、鋳造工程を考える者は、古貨幣のジャンルではごく少数派で、「製法から見てこれはこういう品」という説明では、納得して貰ぬことがほとんどだ。

 焼き物なら「これはどういう手順で焼いたからこういう品」と鑑定するのは、当たり前の観点だと思うが、古貨幣は「見栄え」までで、実証部分が無い。

 

 ちなみに、こういう検証目的なら一二枚作ればそれで済む。百枚作る必要はない。

 小数枚だけ作る分には、絶対に「売るためではない」ことも明らかだ。

 このみすぼらしい永楽銀銭を製造するのに四五万は掛かっているから、絶対に元は取れない。原価を売り値が下回るなら、それはすなわち販売目的ではないということ。

 逆に何百枚もつくり、それが市場に出ているのに、「検証目的だった」と言っても通じない。検証が目的なら、工程の観察が主で、その枚数はそもそも必要がない。

 いざ外から眺めてみると、「笑わせる定説」が山ほどあるのが古貨幣収集界だ。

 「おめー。それを実際に確かめた上で言っているのか」と突っ込みたくなる。

 

 さて、粘土型の特徴については、解決がついた。

 残っているのは、銭笵式鋳造法の解析になる。

 中国の貨幣鋳造法の日本とまったく異なる点は、今も銭笵式の流れが採用されていることだ。現在では、金属型を用いるとのことだが、どういう特徴があるのか。

 品物をあれこれ集める必要はない。これも「作ってみればよい」からだ。

 ということで、その3に続く。

 

注記)使える時間が決定的に少ないので、これも三十分から小一時間での殴り書きだ。推敲も校正もしないので、表記にあらがあると思う。