日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「未勘銭その他」その4)たたら鉄の質から鋳地を読み解く

◎古貨幣迷宮事件簿 「未勘銭その他」その4)たたら鉄の質から鋳地を読み解く

 さて、四番目は見すぼらしい鉄銭の話だ。

 こんな出来の悪い鉄銭だが、雑銭の中からこれを発見した時は、思わず「おお」と声を上げた。

 「銭径が著しく小さい」:ほぼ一文背文銭のサイズ。当初は当四銭とは思わなかった。

 「たたら鉄の質が浄法寺山内や岩泉の密鋳銭と異なる」

 強いて言えば、目寛見寛系の「表面ぶつぶつ」だが、砂目がよく見えない。

 この現象は、たたら炉のサイズが著しく異なることでもたらされる。たぶん、炉の長さは二間に満たず、かなりの小型だった。風貌の通り、数人で作った可能性が高い。

 これとよく似ているのが、軽米大野鉄山の「懸け仏」だ。こちらも、小数人での小吹の炉で、一度にバケツ一杯に満たぬ量の鉄を鋳出した。

 もちろん、「酷似している」だけではダメで、実証か傍証が必要だ。

 

 まずはたたら鉄の代表とも言うべき浄法寺山内座の鉄と、岩泉の密鋳銭の鉄を見てみる。(画像「その4 たたら鉄の違い」)

 いずれもブツブツの感じが違うが、こちらは、双方とも大掛かりな鋳銭体制を取っていた。 山内では一千人規模、岩泉でも百人以上はいたようだ。

 なお、山内銭と特定するのは、銭種が山内固有の「異足寶」であること、岩泉は「そこで掘って来たから」ということだ。

 これらは「鉄地金の作り方が全然異なる」ことが一目瞭然だ。

 

 次は高炉鉄にも例外銭があり、大迫では橋野の銑鉄だけでなく、づく鉄も買い入れていた。づく鉄再鋳銭と冒頭の銭とを比較してみると、やはりいずれとも近似点がまったく見られない。

 再鋳銭はたたら炉や高炉から流れ出た熔鉄を、そのまま型に流し込んだ銭よりも、鉄の純度が高くなり、表面が滑らかになる。(画像その4 参考イ)

 なお、この二枚は大迫の焼け跡の遺構から掘り出して来たものだ。知人が掘って来たところを分けて貰った。このことで「大迫銭=橋野の銑鉄製」という説が誤りであることが既に実証されている。正しくは、「大迫では広く領内全域から鉄素材を買い入れた」になる。実際、鋳銭の量が桁違いに多いから、その通りだろうと思われる。

 

 次は念のため、栗林銭の小型銭だ。(その4 参考ロ 本銭系統の少数派の銭)

 栗林銭が前期後期に分けられるのは、新渡戸の記述が基本になっている。

 「当初は橋野より鉄素材を買い入れていたが、後には自前の高炉を建設し、鉄が作れるようになった」などの記述がある(あくまで要旨)。

 このため、前期では、輪側や背面を削り、材料の節約を心掛けていたものが、後期には個々の銭への研磨が不必要になった。ただ、一律で母銭を小型化する方法は、前期後期に共通していたかもしれぬ。この場合は一つひとつに手が掛かるわけではない。

 Cは背面のみ周縁をゴザスレ研磨しており、とりわけ仰寶大字の背面処理でよく見られる形態になっている。これは背盛や仰寶でも散見される。これらは少なくとも前期銭と見て間違いはない。背のみを研磨することには、材料節約以外の目的がない。

 ゴザスレと言えば「砂笵からの取り出しを容易にする」と言われるケースがあるわけだが、この場合、削るのが背面のみでありナンセンスな発想だ。向きが逆さまになる。

 「高炉鉄」でかつ「小型銭」であれば、ほぼ栗林銭と特定出来るので、ひとまずここに置いた。

 一応、後期銭として置くが、ここでは、冒頭の銭との比較が目的なので、厳密な前後期の区分は必要ない。

 

 さて、難物は大橋銭だ。地元でも大橋銭がなんたるかを知る者はいない。

 ただ、従来の口伝では、母銭ついて「小型で薄肉、白銅または黄銅」の品が充てられて来たので、ひとまず「それを使用した」ものと仮定し、「大迫の標準的な母銭を、そのまま80%程度に縮小した薄肉の高炉鉄銭」をそれに充てる。

 また、閉伊三山については、これまでほとんど分かってはおらず、鋳造枚数も不明となっている(記録は重量だけ)。どれが大橋、砂子渡、佐比内かは不明なのだが、ここでもひとまず仮呼称として「大橋」を宛てて置く。「閉伊の大橋、砂子渡、佐比内のいずれか」では表記が紛らわしいためだ。代表名が「大橋」だ。

 高炉鉄の「小型で薄肉、整った配置」の品は、かなり少ないのだが、ひとまず画像「その4参考ハ」がこれに最も近い。ただ、地金はたたら鉄にもかなり似ているので、判別のつかぬところが残っている。やはり一旦、鉄を取り出した後で、これを再度鋳銭に回したということか。となると、こちらは銑鉄再鋳銭ということになる。

 この系統の銭は、幾分変化が見られ、背盛の頭がマ状になっているものがある。母銭の欠損によると思われるが、頭が高いので割と目立つ。

 Fは銭種として「マ頭通」の方だ(無背)。

 

 ここで、さらに「マ頭背盛」に行き着く。これも薄手の銭で、おそらく銑鉄再鋳銭だと思うが、再鋳銭になると地金の質が良くなり、元々の経路がたたら炉でも高炉でも、あまり違いが見えなくなる。

 

 さて、ひと通り、幾つか「例外の銭」を見て来たが、冒頭の正体不明の当四銭が「どれとも似ていない」ことが分かる。

 堂々巡りになるが、結局は「これに似た地金を持つのは、軽米大野の懸け仏しかない」というところに戻ってしまう。選択肢が他に無ければ、「否定する根拠がない」ということだ。消去法で残ったのが「軽米大野」ということ。

 かすかに垣間見られる書体は、背盛異足寶のもので、そうなると浄法寺山内の母銭を利用したということになるが、山内には同系統の品は無い。

 これほどの銭径の縮小が見られるのは、八戸方面にしかないわけだが、ここでの鉄銭の密鋳は主に一文銭で、当四銭はほとんど見られない。これは密鋳が盛んに行われた時期とも関係しているが、八戸では数例ほど極端に小型の背盛母銭が見付かっており、これが山内系の品であるから、「母銭が山内から八戸方面に流れ、その地のやり方でさらに母銭を作り直した」結果、銭径が小型化したという見込みが成り立つ。

 最後に付記するが、軽米大野は、もちろん、八戸領だ。

 

注記)一発殴り書きで、短時間かつ記憶のみで記している。推敲や校正をしないので、記憶違いや、書き間違いもあることを前提にされたい。これは単なる日記に過ぎない。