日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎蛍烏賊の季節

蛍烏賊の季節

 故人の思い出を記す時には、匿名にしてはならないそうだ。きちんと名前を記すのが、その人と向き合うことで、弔意を示すことにもなる。

 毎年、この時期になると、同じことを記す。

 蛍烏賊を見る度に思い出す人がいるからだ。

 

 二十台の半ばには、私はまだ大学院生だった。

 この先どうするか決めねばならず、研究者として大学に残るか、別の道を探すかする必要があった。

 研究所でバイトもしていたが、これが結構キツい仕事だ。PCを扱える者が少なく、私が入るまでは計算処理を外注していたのが、所内計算に切り替えられた。ま、外注分の経費が浮く。

 結局、代わりが居ない状態になったので、私が進めねば仕事が終わらない。結局、休みが無くなり、繁忙期には「週に六日は会社の近くのサウナで仮眠する」だけになった。家に帰るのは洗濯をするためだけ。

 大学に残るにせよ、この先、非常勤の暮らしが長く続く。

 上があぶれているから、自大学に戻れるのは五年後か十年後か。

 そんな時に、大学のゼミに顔を出すと、帰路、先輩の大久保さんという人が「今日はいいとこに連れてってあげる」と言う。

 先輩の誘いだから、よほどのことが無い限り断れない。

 言われるままついて行くと、着いたのは高田馬場の「一角」という店だった。一応、居酒屋なのだが、ビールを飲んでつまみを二三品頼むと一人一万円するので、学生たちは入れない。

 大学の教員が帰路に寄る。そんな感じの店だ。

 

 大久保さんも非常勤講師の生活をしていたから、とてもそんな余裕はなかった筈だが、その日は最初から私を誘おうと思っていたようだ。大久保さんは私の三つくらい年上だったから、三十歳を過ぎた頃だと思う。

 特に深刻な用件は無く、説教も無し。殆どが世間話だった。

 ま、私は割とはっきりとものを言う方だから、人格に興味を持っていたのかもしれん。

 誘った方が払うので、注文も大久保さんがした。

 「ここは気の利いたつまみを出すんだよ」

 その時に注文したのが、蛍烏賊と鯖のばってらだった。

 だが、その時に限って、板前が気を抜いたらしく、烏賊に匂いが出ていた。コイツは傷みが早いから、カウンターの前のストッカーの中に置く位置が悪いと、ニ三時間で傷む。あのケースの中でも開け閉めをするから、位置により温度が違う。

 ひと口だけで、手を付けずにいると、大久保さんが「食べないの?」と訊いた。

 「匂いが出てますね」と答えると、大久保さんは自分の舌で味を確かめた。

 すぐに板長を呼んで、「こういうのを出されては困る」と叱責した。大声は出さぬが、怒っているのが丸わかりで、顔が真っ赤だった。

 普段は温厚な知識人なのに、ここまで怒るのかと感じるほどの怒りようだ。少なからず驚かされた。

 あれはきっと、せっかく後輩を連れて来たのに顔を潰されたと思ったに違いない。

 蛍烏賊の赤紫色の姿を見ると、あの時の大久保さんの表情が思い浮かぶ。

 本当は何か用件があったが、あの出来事でなしになったのかもしれん。

 

 大久保さんは四十歳を過ぎた辺りで、突然、くも膜下出血を起こし、そのまま亡くなった。

 結局、私は大学には残らぬことを決め、三十歳の時には会社を建てていたので、大久保さんが亡くなったことを知ったのは、数年後だった。

 四十過ぎなら、研究者としてはまだ「駆け出し」だ。職位が安定してから、自分の本来やりたい研究が出来る。

 前触れも無く、いきなりだったそうだから、自分が死ぬ心構えも何もなかっただろうと思う。

 

 毎年、この季節になると、蛍烏賊を食べて、大久保さんを偲ぶ。鯖にはアレルギーがあるのだが、数年に一度は食べてみる。

 やはり体が痒くなるが、これも大久保さんの思い出だ。

 

 ちなみに、中高年は氷を避けた方がよいらしいので、普段は飲み物に氷を使わぬが、どうしても冷えたものが欲しくなることがある。その時には、フローズン苺を使うことにしている。

 冷え方が厳しくないし、最後に苺を食べるとさっぱりする。

 ま、果物も禁忌食品だが、一個二個なら死なんと思う。

 

追記)ひとは肉体が滅んでも、自我は消えずに残る。急逝すると、目覚めるのは数年後だろうが、あの後、大久保さんはどう対処したのだろうか。きっと、自分の境遇の変わりように戸惑ったと思う。

 やはり、病気を知らぬ健康なうちから、ある程度、死後に供えて置く必要はありそうだ。