日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎幽霊に取り憑かれた時の体感

寄り憑きの事例。男性の背後には誰もいないが、頭の後ろに女が掴まっている。

◎幽霊に取り憑かれた時の体感

 昨年の酷い経験で「寄り憑き」があった時の自覚症状(体感)を判別できるようになった。たまたま今日それがあったので、経過を記す。

 今朝、娘を駅まで送るために、ひと足先に家を出て車に向かうと、道の途中で「蜘蛛の糸が顔にかかったような触感」を覚えた。

 周囲に背の高い樹木があったり、電柱、家があれば、本物の蜘蛛の巣の可能性があるが、周りにはいずれもない。蜘蛛は高所から糸を下ろすので、高い位置に起点が必ずある。

 顔に触れてみたが、別段何も残らない。

 「はははん」

 この地に家を建てた時には周囲は殆ど空き地だったが、写真を撮影すると頻繁に煙玉や人影が写った。

 最近は少なくなったが、そもそも十数年前から、夜中の一時二時に玄関の扉をノックする音が響く。外を確かめても誰もいない。

 一つひとつは「たまたま」の場合があるわけだが、全部揃っているとなると、頭のどこかに「働きかけ」を置く必要がある。

 何せ、家の中で家族ではない人影を見ることも度々あった。

 家を出てすぐの道で「蜘蛛の糸」がかかる感触を得たのは一度二度ではない。

 普通の人なら滅多にないのだが、私は生命力が落ちている状態だし、一年に幾度かは危機を迎える患者だ。弱っている者、死にかけの者には、わんさか寄り憑くものだ。

 

 警戒しつつ歩き始めると、すぐに左の首が凝って来た。肩甲骨と鎖骨の間がずっしりと重い。狭心症心不全を発症する時と似た症状だ。

 そのまま歩いたが、今度は悪寒だ。薄ら寒いし、足元がぞわざわする。

 脚の方には、先週、寄り憑かれたばかりで、毎日、お祓いを続けているが、まだ残っているようだ。早期に気付いたからまだ手を打てたが、十と言わず幽霊が寄り憑いていたから、すぐにはきれいにならない。

 

 娘を送り届け、家の前に戻ると、右脚が痙攣を起こしたので、もはや確信になった。

 玄関にはお清めの塩を置いてあるから、これで身を清めたが、居間に戻っても体がやたら重い。

 ちなみに、清めの塩など「気休め」に過ぎぬと思って来たのだが、寄り憑かれた直後なら、幾らかは効果があるようだ。

 ご神刀で体の周囲を切り、お焼香をした。

 「俺に取り憑いても、お前の仲間にはならんし、朝晩お前のことを斬るから苦しい思いをするだけだぞ。ご供養をして慰めてやるから、俺から離れろ」

 そう伝えたが、最近は毎日のようにこの手のことが起きているので、その意味で疲労が取れない。

 ま、これも徐々に体力が落ち、弱っていることを示すものだ。

 数時間横になっていたが、ようやく起きられるようになった。だが、左目からいくらか出血もしていた。

 

 健康な人は、あまりこういうことは起きない。まるで心霊現象に見えることでも、実際のそれは一二㌫に過ぎぬ。

 だが、心身に病気を持ち、生命力や判断力の低下した者には、怖ろしい勢いで幽霊が寄り憑くようになる。

 「寄り憑き(憑依)」自体は、日常的に誰の身にも起きているわけだが、健康だったり、理性的にものを考えられる状態の人は、それほど悪影響が無い。幽霊がひとに寄り憑く目的は、「自我に加わり、その中に入り込む」ことなのだが、心身の健康な者は自我の殻が強固なので、容易に「我に返る」。幽霊は相手の心に入り込めぬと悟ると、自ら去って行く。

 逆に「入り込める」「乗っ取れる」と見込むと、どんどん前に出て来る。

 心に様々な感情を吹き込むだけでなく、物理的な圧力を加えるようになる。

 こういうのは当事者にしか起きぬので、他の者には信じられぬ事態だが、周囲から孤立させることも寄り憑きの手口のひとつだ。

 悪縁(霊)にとっては、ひとの生死にはあまり関心が無く、相手の自我を取り込んで自分のそれを強化することに目的を置いている。ここは映画や小説とは違う一面だ。

 ひとを苦しめること自体が目的ではなく、それはあくまで「その相手の自我・自意識を吸収するための手段」であるということだ。

  恐怖心は自我の殻を揺するので、それを利用するために恫喝したりする。

 

 だが、基本は「心に揺らぎを与える」ことが悪縁の手法だ。正しく幽霊の成り立ちを理解すれば、それが原則として怖ろしいものではないと分かる。

 人間には「気の触れて粗暴なひと」や「悪意から他者を傷つけるひと」がいるわけだが、「人間総てが怖ろしいもの」ではけしてない。

 一般的には「幽霊の総てを怖ろしいもの」と捉える風潮がある一方、死後の世界について絵空事を語る者もいる。

(ちなみに、たった今、回線の繋がっていない受話器が「チリン」と鳴った。これを書くことには、あの世と接触する意味を持つらしい。) 

 

 まずは「正しい眺め方」をすることが重要で、ある程度見極めがつくようになれば、早期にリスクを排除できる。

 ちなみに、念を込める修行をしていない一般人が、付け焼刃のお経や祝詞真言を唱えたところで、何の役にも立たない。そんなことなら、自分の言葉で意思を伝えた方がよっぽど役に立つ。

 そのためには、自分の頭の中で考えていることが、本来の自分自身の心から発しているものなのかを、よく問うてみることだ。悪意や悲観的な感情は、他者(幽霊)から吹き込まれている場合がある。

 瞼を開いて己の目で見て、耳を欹てて誰の声かを確かめるべきだ。

 

 掲示画像はもはやお馴染みになった分かりやすい事例だ。

 きちんと記すべきだが、こういうのは、この男性だけではなく、どの人にも日常的に起きていると思った方がよい。

 おそらく、この男性は心に問題を抱えている。それが悩みや苦痛の原因になっているから幽霊が寄り憑いて来た。

 放置すると、身近な人間関係が壊れ、夫婦や親子の関りが崩れて行く。

 一方、心を入れ替え、気分転換を図り、前向きに考えることで、案外、こういう憑依霊はあっさりと去って行く。侵略が進んでいない状況なら、お祓いも不要だ。

 早い段階できれいにする姿勢が重要だが、多くの人はたかを括り、こじれるだけこじらせてからお祓いを受けに変な自称霊媒師・霊能者のもとを訪れる。