日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎当面の危機を回避

当面の危機を回避

 「黒いひと」に抱き付かれてから二週間の間、朝晩ご供養を施し、家を出入りする時に厄払いを行っている。夜にはお焼香をしているが、基本は「対話」だ。

 同時に温熱療法で脚を温めている。

 足先に血豆が出来、それが崩れ始めた時には少し驚いたが、どうやら切断しなくとも済みそうだ。医師や看護師によると、「動脈硬化の進んだ患者には、ほんの些細な傷がもとで下肢の切断が必要になる人がいる」とのこと。通常は糖尿病の末期に起きるのだが、私はその方面は軽微で、今は投薬も注射も必要ない。

 このため、「数日で危機に陥る」という直接の要因が見当たらぬわけだが、私の場合は、写真に写ってくれるので分かりよい。

 病気の大半は身体の不具合が原因で起きる。まれにあの世が関わることで生じる疾病もあるので、病気は原則として医療で治すが、魂心を整える姿勢も必要だ。

 

 ま、私の見ているものは殆どの人には見えぬので、何故その選択をするかという説明が難しい。

 ここで生前の母の姿勢が初めて理解出来る。

 母の許には毎夜、午前二時から三時の間に来訪者があったようで、必ずその時間帯には目覚めていた。

 自らも水を飲み、枕元にも水を置いていた。後のは来訪者のための「供え水」だと思う。

 この母はあの世や幽霊について一切を口にしなかった。

 今にしてこれは正解だと思う。「こういうことが起きる」と伝えても、誰一人理解出来ぬし、それどころか「ちょっとイカれた人」の扱いになってしまう。瞼を閉じた者に色の説明は出来ぬから、一切を語らぬ方が良い。

 ま、私の方は「人間嫌い」なので、他人が忌避してくれた方が助かる。よって、どんどん口にすることにした。

 どうか傍に来てくれるな。

一人の人間に会うと、その後ろにいる五六体とも顔を合わせることになる。こういう立場の者にとっては、交際・交流など苦痛でしかない。

 私が見ているものはただの想像や妄想で、幽霊ではない。霊能力など持たぬし、占いも出来ぬ。他人に関わるつもりもないから、どうか声を掛けてくれるな。

 「変なヤツ」「イカれたヤツ」と放り捨ててくれればそれでよい。無視してくれ。

 お互いにその方が気持ちよく生きられる。

 

 とまあ、かなり脱線したが、これは少し気が楽になっているせいだ。

 胴にがっしり回っていた「黒いひと」の呪縛が解けたので、たぶん、今月中に私が死ぬことはない。

 来月もたぶん大丈夫で、下肢を切断されることも無いと思う。

 この間、治療らしい治療は行っていないから、対話と祈祷による効果ということになる。

 この日も神社で撮影したが、背後に複数の幽霊がいて、私に掴まっている。だが、これらはごく普通の幽霊だ。

 「助けてください」「連れてって」という声が聞こえるから、先導して欲しいだけで悪意はない。

 かなり前から、観光ガイドみたいに「御一行さま」を連れて歩いていることがあるわけだが、ご供養を繰り返している間に、これらは順々に去って行く。(今のところ、来る者の方が多い。)

 

 面白いことに、今回は別の効果を発見した。

 二日前に胸腹部のエコー検査を受けたが、多少、心臓で逆流が見られたものの、深刻な病変が無くなっていた。とりわけ腹部は「異常なし」。この六七年は臓器のどこかに必ず腫瘍が出来ており、検査の度に報告頁が三四枚に渡ることが普通だった。

 それが胸腹部で計二枚。心臓以外は「問題なし」。

 その場で「おいおい。俺はお祈りしかしてねえよ」と声に出して言ったほどだ。

 私のような境遇だと、外部から勝手に作られる病気があるのかもしれんわけだが、もしそれを解明できれば、かなり有用な知見になると思う。

 「祈祷師や魔術師がお祓いだけで病気を治す」のは、殆どの者が「ただの迷信」だと見なす。

 私もそう思っていた。

 だが、人により、そもそも霊(魂)域が原因で起きる病気の要素があるとしたら、その対応で治るものもあるということになる。それなら、総てが「迷信」ではないのかもしれぬ。

 

 もちろん、だからと言って宿命は変わらない。

 私は本来の寿命が終わっているので、あまり時間は残っていない。いいずれ動脈硬化が進み、脚は無くなり命を落とす。それまでの間に、なるべく霊と魂のあり様を追究しようと思う。

 以上は昨日までの話だ。

 

 今朝方になり、何故現状がこうなのかということの説明があった。

 (時々あるが、壮年の男性の声で頭の後ろで語る。)

 七八年前くらいから、私には盛んに幽霊に寄り憑かれる事態が起きている。背後から沢山の手が伸びて私の体を掴むさまが、幾度も画像に残っている。

 簡単な話で、これは「ついに亡者の群れに追い付かれた」という意味だ。

 この「亡者の群れ」または「百鬼夜行」については、これまで幾度も記して来た。

子どもの頃から幾度となく、「数十万人の亡者の群れに追い駆けられる」夢を観て来たのだが、最初は数キロ遠くにいたのに、次第に距離が詰まり、最近では手の届く位置まで追い付かれていた。

 たぶん、すっかり追い付かれたのは四年前の令和元年で、それ以降は、私の体のどこかに「誰のものでもない手」がかかっている。

 今のところ、観光ガイドよろしく群れの先頭に立っているわけだが、少し気を抜くと、群れに飲み込まれてしまう。

 この亡者の中には「黒いひと」みたいな存在も混じっているから、先日のような事態が起きる。

 

 「黒いひと」をはっきり認識したのは、令和元年だった。元々より近くにいたのだろうが、それまでは気付かずにいた。だが、「不可思議な黒いひと型」を一度目にすると、何とも言えず気になって幾度も覗き込んでしまった。すると、その後、次第に識別できるようになった。

日中よりも、夜など暗い時の方が分かりよい。霊体は赤外線に反応するが、「黒いひと」はマイナスの側の反応になる。

 夕方、車で道を走っている時に、時々、道端に立っていたりする。ほんのちょっとした光の揺らぎだけだが、周囲とずれがあるのでそれと分かる。

 

 時々、「ネットで公開できぬ画像」について言及するが、それは「怖ろしい幽霊が写っている」からではない。幽霊やバケモノのようなものではなく、慣れぬ者には「ただの景色に見える」ような画像だ。

 だが、「黒いひと」のように、「一度見たら、その後の人生が変わってしまう」ものもある。

 たぶん、この場合は瞼が開くことにより、苦痛の方が増える筈なので、見せられぬのだ。

 こういうのは怪談の域ではなく、いざ入り込んだら、二度と元には戻れない。

 まだ生きているのに、地獄の入り口に立つことになる。

 「黒いひと」の前に、学ぶべきことが多々あるのだから、まずはそれを受け入れることからだ。

 「瞼を開き、耳を欹てる」と生死の理が見える。正しく理解すれば、とりあえず寿命を短く詰めるのを避けられる。簡単に言えば、死期を先延ばしに出来るということ。

 もちろん、ただ生き延びるだけでなく、その時間をどう使うかと言うことの方が重要だ。

 

追記)二十八日に右後ろに居たのは、昨年十月の「スーツの女」のよう。まだ私の近くにいたか、あるいはこの神社の境内に居たかのいずれかになる。ま。いずれ必ず救済してやろうと思う。

 この画像で「スーツの女」は五㍍後ろ。腰を折ってお辞儀をしている。