日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 R060607 「この世とあの世が重なる時」

霊界通信 R060607 「この世とあの世が重なる時」
 この世とあの世(幽界)は重なって存在している。同じ世界に同居しているのだが、互いに相手を上手く認識出来ない。
 これは、認識手段が違っているからで、生きた人間は五感(肉体)で検知するのに対し、幽霊(幽界の霊)は心(感情)で、他者の存在を検知する。このため、同じ部屋の中にいるが、衝立を境にしているのと同じように、相手のことがよく分からない。

 今年の一月に撮影したこの画像は、「この世とあの世が上手く繋がった瞬間」を捉えている。
 たぶん、私が二者(人間と幽霊)の中間に立つ者だからで、これは「かつて一度死んだことがある」からこうなった。
 初めて目を通す人のために付記すると、「死んだことがある 」とは「心停止を経験した」ことが基盤だが、その後、「お迎え(死神)に会ったが死期を先延ばしにして貰った」ことなどが関係している。
 ちなみに、昔、凶事が重なることが多々あり、霊感師に見て貰ったことがあるのだが、そもそもが強い「神霊体」という素質を持つ性質らしい。これはあの世の影響を受けやすい性質を持つという意味なそうだ。
 勘違いしている人が多いのだが、こういうの(霊感)は特別な能力ではなく、「きちんと見ているか。見られるか」だけの違いだ。可視域や可聴域は一般より少し広いと思うが、能力と言うほどのものではない。
 いつも記す通り、「特別な霊能力というものは存在しない」。
 人間の認識は五感が基本で、霊感はそれらを総合したもの。それ以上でもそれ以下でもない。どのように見るか、その見方を覚えれば、誰にでも見えるようになる。

 と、これが大原則なのだが、人間は「見たいものだけを見ようとする性癖がある」し、実際に見ているのに、それを頭が否定し、無視する。
 その意味では、この画像は格好のテキスト、もしくは踏み絵だ。

 最初の画像は、私がガラス窓の前に座り、窓に映る自分自身と景色を撮影したものだ。窓の奥に光源があるので、私の顔が消えている。
 私の顔は消失しているが、他に様々なものが写っている。
 ひとつの例が、次の個所だ。
 わかりよく拡大したが、A(左)の画像では、「何も見えない」人が割合いるようだ。B(右)はこれにアウトラインを引いたものだが、ここで初めて「少女が背中を向け、こっちを向いている」と認識出来る人が増える。
 「少女」が認識出来ると、この「少女」が膝を着いているのがベンチで、少女が背もたれに手を掛けていることや、手前に野花が咲いていることが分かる。
 だが、実際には「少女」はいないし、驚いたことに「ベンチ」も「野花」もない。
 (これを確認するために、後日、再度この場所を訪れた。)
 ここで初めて、少女のいる世界が「まったく別の世界」だったと分かる。物理的にはその位置にあるのだが、しかし、生きた者が認識出来ない世界だ。

 私の場合は、最初の画像を見た時に、三秒くらいで違和感を覚える。頭の中ではこんな風に展開する。
 「誰かが自分を見ている」
 「少なくとも七人以上」
 「はっきりと目視出来るのはニ三人」

 あの世をよりよく認識するには、眼を付けるべきところがある。「視座」を持たぬ限り、少女Aは見えず、実際のところ、一目でこれが見えるのは少数派だ。
 ともあれ、この画像を見た時の思考過程と、着眼点を羅列すると下記の通りとなる(画像3)。

1)自然現象のルールにそぐわぬ光や影、煙
 室内の光源から、放射状に光が分散するが、私の近くのそれらしい光は曲線を描いている。放射光ではなく煙(霊霧)だ。
2)煙玉
 煙(霊霧)のあるところには、よく煙玉が出る。煙玉自体は霊的現象ではなく自然現象なのだが、霊的現象が現れる時に付帯的に発生することがある。
 要は「煙玉」があったからと言って、それが霊的なサインであるとは限らぬが、霊的な現象が生じている時には煙玉が出やすい。

 ちなみに世間的には「オーブ」と呼んだりするが、認識が浅くてウンザリ。基本は自然現象で前提がそこから。

 

3)少女(左側)
 ルールに従って、煙玉の周辺に目を遣ると、すぐ下に少女の姿が見える。
 華やかな振袖を着ている十歳から十二歳くらいの背格好だ。
 眼の周りが黒いが、おそらく病気で亡くなった。
 周囲には複数の幽霊が囲んでいる。
 死後は自意識に従った姿になるため、これは「この時でありたい」または「執着する」自身の姿だ。よって、少女の時に亡くなったとは限らない。

4)少女(右側)
 この画像で最も強い光を放っているのがこの少女だ。
 赤いちゃんちゃんこを着ており、前にも同じ場所で撮影した画像に入っていた。
 どうやら世間で言う「座敷童」のような存在らしく、この子の姿を見るだけで、心が明るくなる。
 この子を見る度に「父に似ている」と思うが、この子の影響を受ける人であれば、同じように「身近な存在」として認識すると思う。
 この時以来、苦痛や怒りを覚えた時には、この子の姿を見るようにしている。で、実際に落ち着く。

 ここまでを確認すると、他のことも眼に入るようになる。

5)私の左腕が折れ曲がっている
 私の左腕が有り得ぬ角度で曲がっているが、こういうのは「間近に幽霊が居た時」に時々起きる。世間で言う心霊写真で、「体の一部が消失したもの」があるのだが、さらに妙に膨れたり、折れ曲がったりする。
 (画像的に「たまたまそう見える」場合もあるから、状況を確かめる必要はある。)
 こういう場合は、そこに幽霊が居ると思って間違いない。

6)私の胴に巻き付く左手
7)同       右手
 曲がった左手の上に目を向けると、背後から左右の腕が前に回っているのが分かる。これは私の腕の位置とは違う。
 顏らしき影が複数出ているので、私の背後には、いつも通り「隊列」が続いていると思う。
 
8)女性
 ここまで来ると、視覚だけではない眺め方になるようで、この位置に女性がいることが何となく分かる。
 白い着物を左前に着ており、「前に見たことがある」と思ったが、かなり前でこの場所で撮影した画像にも姿が残っていた。

 あの世は景色の中に溶け込んでいるので、ふだん景色を眺める時の視線で眺めると、何ひとつ認識出来ない。
 かたち(視覚)でどう見えるかよりも、音(聴覚)や触感(触覚)、感情の揺れを総合的に眺めて把握することが重要だ。

 その意味で「踏み絵」になるのは、最初の画像だ。
 これを漠然と見て、「何だかおかしい」と感じるのが「霊感」だ。世間には、「自分には霊感がある」から「霊能力がある」と自称する人は沢山いるが、もしそれが妄想や願望ではなく真実なら、この画像を見てすぐに見て取れる筈だ。
 自分の感覚が本当かどうかを知ることが、あの世に向き合う第一歩だ。

 ちなみに、ユーチューブなどで霊を語る者が沢山いるが、気分が悪くなるくらいデタラメだ。
 あの世(霊界)は、基本的に「人間の五感では感じ取ることが難しい」位置にいるから、「確固たることは言えない」とするのが正当な見解だ。現象面だけ見てものを言うと、実態から遠ざかる。ホラー映画や小説の延長線上で眺めても何も生まれぬから、不毛な活動だと言える。あるいは恐怖心は快感のひとうだから、ただの娯楽に過ぎない。
 私は霊障を受ける頻度がやたら多いので、それを避けるために仕方なく調べている。 

 気を抜くと二日であの世に連れて行かれる。好奇心や物見遊山でやっているわけではないので、研究家や霊能者(自称)と言う人種を見ると腹が立つ。障りを渡したくなるし、実際にそうすると思う。ま、即座にその場でそいつを撮影する。たぶん、自分の後ろにどんな気色悪いヤツがいるかを知らんだろうと思う。

 最後の画像は令和元年のもの。
 この頃に、「亡者の群れ」(百鬼夜行)の中に飲み込まれ、今現在もその中にいる。気を抜くと、体を掴まれ、何十何百と言う亡者(幽霊やバケモノ)が連なるので、頻繁に祓う必要がある。
 左肩に掴まっている女が「裸」だと分かるのは、私の背中の肩甲骨の辺りに、「乳房が当る」感触があるからだ。これはいつでも思い出すことが出来るし、記憶だけでなく、たまに同じ感覚を覚える時がある。
 コイツは今も時々傍に来て、変な気分にさせる。

 

 今回は割と丁寧に書いた(つもり)。保存版だ。