日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 「誰かが見ている」

◎霊界通信 「誰かが見ている」

 様々な場所で「説明のつかぬ現象」に出会って来たが、どうやら場所の方に原因があるのではなく、私の方らしい。そのことが分かって来たのは最近だが、環境条件が整えば「現象」を把握することが出来る。要は「私の」行く先々で、場を選ばず起きるということ。

 このため、以前はその地に住む人々に迷惑をかけぬため、地名などを隠していたが、原因が私の方なら隠す必要はないから、今後はきちんと記すことにした。

 

 何とも説明のつかぬ現象が起きた、そのピークのひとつが令和元年頃だ。

 とりわけ、九月には集中して首を捻る事態が頻発した。

 まず九月八日のうちに起きた出来事から時間の経過に従って記す。

 この日最初に訪れたのは日高の高麗神社だ。ここには猫のトラがいて、私はこの猫に救われたと言っても良い。猫に会うために、月に十五日はこの神社に参拝した。

 その中で、「窓ガラスにその場にはいない筈の人影が映る(写る)」ことに気付き、窓ガラスを撮影するようになった。ちなみに、この神社だけでなく、窓ガラスには「説明のつかぬ人影」が映り(写り)込むことがある。もちろん、百回に1回あるかどうかだが、純粋に光学的な要因による効果だと思われる。

 この時は、家人とガラス窓の私を撮影したのだが、撮影中から「誰かが見ている」気がしていた。何とも言えぬ視線を感じる。

 いつも私の頭の後ろに「大きな女」の影が写り込むことが多いので、今回この画像を開くまで、その「大きな女」だろうと思っていた。

 私の頭の後ろには灌木のような影が見えるが樹木があるのは、少なくとも五十㍍は後ろだ。この時は不鮮明だったが、「大きな女」の存在は常に感じる。

 だが、どうもしっくりこないので、今回開いて見たら、何のことはなく、私の胸元に四十台くらいの女の頭があり、こっちを見ている。

 画素数が落ちており、粗い画像になっているが、「そこに女がいる」のは容易に分ると思う。これが視線の正体だった。

 これだけガン見されれば、視線を感じるのは当たり前だが、同時に「この女にも私が見える」ことを意味する。生きている者と幽霊は互いに相手の存在を知覚し難くなっているのだが、私は幽霊に悟られやすい。ま、いつも記す通り、過去に二分程度「死んだことがある」ためだと思う。

 神社を出た後、帰路の途中でサイボクハムに立ち寄り、温泉施設の入り口で撮影した。っこで撮影したのは、「そこに窓ガラスがあったから」で、私は既にこれが習慣になっている。

 ここでもやはり「誰かが見ている」感じがある。

 車で画像を開いて見たら、やはり見ている者がいた。

 私の胸元に、苦しげな表情をした老人の顔がある。これは幽霊の画像としてはかなり鮮明なので、殆どの人が「老人の顔」だと認識すると思う。

 こういう時の常だが、あまりにもはっきりしているので、最初は自分を疑った。

 だが、検証してみると、施設内のエントランスに人はいない。長椅子があるが、総て空だった。

注)最初に掲示した時には画像を添付するのを忘れていたので、追加した。

 場所を替えて、再び撮影したが、今度はあるべきところに私の頭がなかった。

 頭は「首の上にあるもの」だが、その位置に頭が無い。やや後ろに男の顔が写っているが、私とは似ても似つかぬ顔をしている。帽子を被っているか長めの髪で、丸いサングラスをしている。私の方は短髪だし眼鏡は丸くない。

  またよく見ると、左腕が二本重なっているが、前はグレーの浴衣風で、後ろはTシャツだ。この時の私はどちらでもなく、エンジのポロシャツを着ていた。

 どうやら、この日は「幽霊が集りに集っていた」状態だったようだ。

 サイボクの老人のことが気になったので、九月十二日に、もう一度同じ場所を訪れてみた。

 玄関前で撮影すると、この時には私の後ろに、白い服を着た女の姿が写った。

 これは幾度も公開して来たものと同じ画像だ。

 女性の頭は私の左肩で、左手が鮮明に見えている。手には白いチェーンのようなものが繋がっており、女性の手首と私のそれとを繋いでいる。

 これは画面通り、「切っても切れぬ所縁がある」ことを意味すると思う。

 この女性は背丈が190㌢近いと思うが、あの世の者はサイズを替えられるので、大きさは影響力を示すと考えるべきだと思う。頻繁に後ろに写る「大きな女」とはまた別の存在のよう。

 今考えると、この頃の私は心臓のカテーテル治療を受ける直前で(二か月後)、かなり危険な状態にあった。身体も弱っていた筈だが、同時に幽霊の寄り憑きも尋常ならぬ数だった。

 白い服を着た女性は、この後、幾度か現れるのだが、いずれも私が危機的状況にある時だ。本当の危機的状況の時しか出て来ないのは、近しい家族が眺めるような目で私を見ているということだろうと思う。

 これ以後、私はこの女性を「巫女さま」と呼び、敬うようにしている。

 私を見ている者は、浮かばれぬ幽霊たちだけではなく、「あの世の仲間もいる」ということだ。

 

追記1世間には「私は霊感が強いんです」「霊能者です」と自慢げに語る者がいるが、とんでもない話だ。もしそれが真実なら、次から次へと幽霊が寄り憑く筈で、それには切れ目がない。ほとほとウンザリする。霊感は苦痛でしかないのだ。

 腹が立つほどだが、幽霊には殴り返すことが出来ぬので、「霊感のある人」や「霊能者」に罰を当ててやろうと思う。

 もし私の前でその類のことを言えば、「30体は背中に付けて」やろうと思う。

 能力があるなら、別に問題ないでしょ。

 だから早く来い。お前もお前の家族にも、友人知人にも、隣りの家の猫まで累は及ぶ。(これはアモンと言う者の伝言であって、私ではない。)

 

 とりあえずその場でその人を撮影しようと思うが、霊を感じやすい人なら、煙や光、煙玉がバラバラ写るし、人影も写る。

 これが無いなら「霊感がある」「霊能者」はただの思い込みか妄想だってことだ。

  ま、自称「霊能者」だって人が、自分で心霊写真を撮影したという話は絶えて聞かない。それなのに能書きは垂れる。

 宗教を主宰しているような人なら100%何かが写るし、それも「良からぬ者」であることが丸わかりだと思う。魂の安寧を解く者の背後には、大体はバケモノみたいなヤツがいる。きっとアモンさまのお友だちだ。