日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨・絵銭の話」(続) ◆天保通寶 盛岡(南部)小字の黒色の母銭

盛岡銅山銭、天保盛岡小字に打たれた六出星の大極印

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨・絵銭の話」(続)

天保通寶 盛岡(南部)小字の黒色の母銭

 勧業場製の記述をしていて「小字母銭」について思い出した。

 あれはもう25年以上前のことになる。

 岩手の収集家某氏より連絡があった。

 「私はもう齢なので収集品を売却したい」

 「大量にある」とのこと。

 ひとまず自宅を訪問すると、コレクションは見事なもので、盛岡銅山銭を始めに希少品がぞろっと並んでいた。

 「まずは雑銭から始め、総て売ります」

 最初は木箱に十箱くらいの雑銭で、「収集家の見た後の品」でちょっと退いたが、後々、希少品も出て来るということで、通常の枚単価で引き取った。(ここはネット売価程度でも良い。)

 売り方としては非常に上手で、コレクターにせよ業者にせよ欲しいのは希少品。先に希少品を出せば後は二束三文だ。とりわけ、収集家の持っていた雑銭なら「見たカス」になり、買い手はなくなる。

 これで延々と付き合うことになったが、雑銭の処理が終わり、ようやく役付きに入いったところで、蔵主が「結構売れたから、とりあえずこれくらいでいいかな」と言う。

 「オイオイ。話が違う」と思ったが、ゴタゴタするのも見苦しいし、自分から「譲ってください」と言うのはやめようと思っていたので、そのまま引き下がった。もちろん、この時点では怒り心頭だ。既に百万単位で遣っている。

 それから、しばらくして、「母銭を一枚売りたい」という連絡があり、再び訪問すると、当百銭の盛岡小字の母銭だった。

  だが、どうにも表面色が黒い。要は白銅質だったということだが配合が藩政期のものではない気がする。小字の母銭であれば、その当時でも「下値は百万から」の品だが、希望価は四十万だという。明らかに安い。

 さすがに躊躇したが、「買い手を探して欲しい」という依頼だったので、鑑定の出来そうな収集家を紹介した。

 後日、その収集家と一緒に再訪問し、見て貰ったのが、その人は引き取りますと言って買っていった。仲介はしたが、もちろん、手数料などは双方とも貰っていない。私は品物について何も保証できぬので当たり前だ。

 立場的に業者ではないからだが、交通費などは持ち出し。だが、こちらは盛岡銅山銭が欲しいので、それまでは付き合う。

 

 この黒い色の小字母銭について後に調べたが、NコインズOさんに聞くと概略が分かった。元の持ち主はK村さんで、K村さんがこの最初の収集家に売り渡した品だとの由だった。K村さんが売り渡したのも「推定相場の半値」で、要は疑問のある品だったということになる。

 ただ、輪側に極印があったが、母銭の仕様であることが明らかだった。

  いかんせん、地金色が黒い。

 この点は一年後に氷解した。

 盛岡銅山銭の二期銭を相次いで入手したが、これと地金がほぼ同じだったのだ。

 母銭なので当たり前だが、焼き型を使用しており、極印も打っている。二期陶笵銭も同じだ。二期陶笵銭には、初期には砂が若干粗い、「いい感じ」のタイプがあるのだが、地金だけはほぼ同じ。

 こういう品を未経験者が短期間で作ることなど到底無理な話で、これで「勧業場では銭座で鋳銭を経験した者が指導した」ことが明らかになった。

 まず銭座職人が鋳銭工程を口述し、それを新渡戸仙岳が書き取りつつ、職人が工程を再現して見せた。記述内容は細に入り詳述された部分があり、これは目の前で見ていなければ書けない水準だった。ただ、新渡戸なりの解釈が入った箇所があり、それが「陶笵」などの少し異質な表現になったのだろう。

 母銭の場合、通用銭と違い、長く砂笵を焼き固めるが、これは通常技法であり、取り立てて特記するほどのものではない。「母銭を作った」で済む。

 藩政期の天保銭にも地金の白い品は存在するが、配合の基本が異なるので、勧業場の二期銭などとは色合いがまったく異なる。

 

 極印についての記憶が薄れたが、確か片方が六出星の小型で、もう片方が崩れており、判別できぬかたちをしていたと思う。

 前回の仰寶小極印銭には、1個だけ「六出星の小」極印があるのだが、これを見て幾らか記憶が蘇った。

 

 勧業場製の貨幣鋳造は、専ら鋳造技術の研究が目的だったわけだが、技術を洗練させるために、「美麗な製品を生産する」ことに注力されていた。

 錫は幕末には高価な材料だったが、明治期には割と安価に手に入るようになっていたから、錫の配分量が増え、地金が白くなったのだろう。

 

 以上のことには推論を含むが、次の事実で概ね推定が可能になる。

 勧業場では、正規の母銭(または錫母銭)を基に鋳銭を行っているが、では、それを持っていたのは一体誰だったのか?

 明らかに銭座に深く関わった「当事者しか調達出来ないもの」だということだ。これが宙から湧いて出ることはない。 

 

 収集家は分類するところまでにしか興味を持たず、藩政期とは「別の品」だと思った時点で追及を止めてしまう。「勧業場製では」と見なしたところで、評価を下げ、その勧業場で何が行われていたかを調べない。

 先輩諸兄は「藩政期の品ではないが、極めてよく出来ている品」ということで、半値にしたのだろうが、まったくの参考銭でもないので的外れでもない評価だと言える。

 もちろん、それは「たまたま」であって、確たる根拠など無かった。

  明治後半の検討内容を見ると、こと南部銭については、今の方がはるかに後れを取っている。これはひとえに「分類(だけ)嗜好」と「珍銭探査」に終始する収集家の性癖による。

 

注記)エッセイであり一発書き。推敲も校正もしないのでもちろん不首尾はある。気に入らぬ筈なので、読まぬことをお勧めする。こちらは既に古泉収集界に興味を持っていない。ま、問われれば、証拠を上げて「これは参考品」と言う。よって問わぬのが無難だと思う。

 

追記1)岩手の収取家から「見たカス」を何万枚と引き取ったことを記したが、そのカス銭からは南部領ではない他領の通用銭や母銭がぽろぽろと出た。そのまま会内に安価で分譲したので、その事実を知り、後で頭を抱えた(「軽く目を通して置けばよかった」ということ)。

 地方の収集家はとかく「自身の郷土貨幣」に興味を持つものだが、時々、「郷土の貨幣のみ」に興味を持つ人がいる。

 様々に勉強になる点があったので、今では先輩諸兄に不平や不満はない。