日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨と絵銭の話」(続)「鋳造貨幣の出自を探る」その1

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨と絵銭の話」(続)「鋳造貨幣の出自を探る」その1

 以下の議論は既に25年は前に済んだ話だ。

 古銭会では一部にのみ触れたことがあるが、議論の中心は、花巻NコインズOさんとの間で行われた。花巻の例会があった時に、二次会が喫茶店などで行われたが、さらにその後で、Oさんと二人で店内か食堂に行き、そこでこれを話した。

 古銭会で取り扱わなかったのは、鋳銭の工程すなわち「どうやって貨幣を作ったか」について関心を持つ人が皆無だったことによる。収集家の90%以上が興味を持つのは分類で、誰がどういう手法で作ったかについては無関心だ。

 

1)仙台削頭千のつくり方

 鋳造地、鋳銭主体が違うのに、銭容がやたら似ている銭種がある。

 ま、銭譜を見ると「※※銭を範として作った」などと書いてある。

 では、その「範として作った」というのはどういう意味なのか。「写して作った」のか「真似して作った」のか?

 最初の素朴な疑問は「原母はどこから持って来たのか?」ということだろう。

 ひとつ目は「自分で作る」で、通貨であれば、書家に文面を書いて貰い、それを金属板に貼り付けて、彫金師が彫る。当然片面ずつで、それを合わせて一枚の彫母を作り上げる。二つ目は「最初の母型(彫母や原母)を調達し、それを基に銅原母を増やす」。

 銭文が酷似しているのであれば、二番目が想定されるところだが、しかし、その場合は鋳写しが基本となり、途中で加刀修正などが入らねば、縮小率に差は出こそすれ、配置は変わらぬ筈である。

 それなら、配置を重ねて、一致点や不一致点を確認すれば、「どうやって作ったか」が推定出来そうだ。

 そこで、文面の非常によく似ている江戸深川俯永と仙台削頭千との合わせを行った。

 

 手法については図1から4の通りで、内郭のサイズを基準に、拓影を合わせてみた。

 これによると、配置が90%程度の水準で一致しており、「文面を記してー」を棄却することが出来る。書家が手で書くと、必ずその人なりの癖が現れるので、配置が崩れる。

  要は「出発点が深川俯永だった」ということだ。これが「範として」の言葉の裏付けになるわけだが、しかし、数㌫の範囲で明確な相違点が生じている。

 その中には「加刀修正による変化」とは考えにくい相違があるわけだが、これはどういうことなのか。

 このことの理屈は容易に想像がつく。

 仙台削頭千は大型の鉄銭であり、「銭の規格を大きくする」ことが念頭にあった。

 鋳写し手法では、銭型が縮小してしまうので、原母を大きく作る必要がある。

 これを補うのは、「深川俯永の拓本を採り、これを金属板に貼り付けた上で、彫金師が少し大きめに彫った」ということだ。

 この「彫り直す」途中の工程で、文字や波などの「鋳写しでは生じにくい変化」が生まれた。

 

2)小字背千のつくり方

 初発段階で、まったくのゼロから始めるよりも、手本をなぞる方が作業が容易に進む。同じ銭座であれば、削頭千と同じ手法で作られた銭種があるのではないか。

 同じくよく似た銭種として上げられるのが、明和期小字背千と明和四年銭である。

 この銭種の文面は非常によく似ている印象である。

 そこで、1)と同じ手法で、銭影を重ね合わせてみることにした。

 

 この場合、標準銭径が小字背千の方が大きいので、これを台にして、銭影を重ねてみた。郭を基準にサイズを調整すると、文字の配置、背面の輪・郭の配分比について、かなりの確率で「四年銭小様降通」に合致することが分かった。

 もっとも大きい相違は「背の内輪の幅」で、四年銭小様はとりわけ郭上が狭くなっている。

 おそらく削頭千と同じ手法で、拓→金属板への彫金で仕立てたと思われるが、「千」字を入れる都合上、背郭上のスペースが空いている方が都合が良かったのだろう。

 もちろん、「総てがこれによる」と言うわけではないので念の為。

 

 ここまでは、あくまで準備段階の話だ。

 恐縮だが、私は仙台銭に興味を持ったことが無いので、この先は地元の人の考えることになる。

 なぜ仙台の技法に着目したか、その理由は、石巻銭座に多くの南部職人が出稼ぎに出て、この職人が帰村して、「八戸領内で鋳銭を行った」ことによる。

 八戸の鋳銭事情を知るには、まず仙台領のコンセプトを押さえて置く必要があるわけだ。この場合、仙台での厳密な方法や、個々の仙台銭については不要で、基本的な工程の流れが分かればよい。                 (次回に続く)

 

注)記憶のみを頼りに記すもので、一発殴り書きである。推敲も校正もしないので不首尾はあると思う。エッセイの範囲というように理解されたい。

 

追記1)O氏との話題の焦点は「目寛見寛座の鋳銭方法」だった。

 背千の鋳写しの系統と、一般通用銭に範をとったと思しき系統が存在しており、これらは、企画の段階からまるで違う。

 銭譜を見ると、「背千写し(正様)」も「目寛見寛類」も、一様に「葛巻銭」と書いてあるが、ウマシカ丸出しだと思う。

 母銭の製造工程からしてまるで違うものが、同じ銭座の産物だと。

 もしそうなら、工房が幾つもあり、てんでばらばらな鋳銭を行っていたことになる。

 通用銭を作る時には、母銭の揃えは終わっている。母銭と通用銭を並行して作ることはない。職人に払える賃金を抑えるには、効率よく作業を進める必要がある。

 彼らは「美麗な古銭」を作ったのではなく、「貨幣を作り」「利益を上げる」ことを考えた。「きれいのきたないの」「良いの悪いの」は、道楽者のざれごとだ。

 そんなのは結果のひとつで、それを解きほぐすのは「どうやって作ったか」を知る以外にない。