◎前の暮らしに戻すべき時
日曜は家人の要請で高麗神社に参拝した。この日は例大祭で、特別な行事があったはずなので、それを観たいそうだ。
神楽があれば楽しいが、あおれは確か十一月だったような記憶がある。
境内に入ってみると、この日のイベントは朝鮮半島との交流イベントだった。高句麗から逃れて来た人たちが、日高市一帯に移住して高麗郡を形成した。高句麗だから今の北朝鮮だと思うが、交流行事は日韓で行われる。どちらかと言えば、高麗人を追い出した方だろうから、歴史は皮肉だ。
神殿でセルフチェックしたが、喉元に煙が出ていた。
女の目も見えているし、腕にも絡んでいるので、沢山たかっていると思う。
あちこち具合が悪いのもこのせいか。
これから年末にかけては、あの世の者が活発に活動する時期だから、また前のような生活に戻すべきなのだろう。
こちらが見ないふりをしても、先方が関わって来る。
「どこから、何故」が知りたくて、放置してきたわけだが、実害に及びそうな気配なので。そろそろ手を打つことにした。
あの世のことに目を伏せ考えずに過ごすと、使える時間が幾らか増えるし、次第に鈍感になる。使える時間が増える気がするのでこの方がよいと思ったが、しかし、悪影響がどんどん進んでしまうかもしれん。時間をかけて身に着いた習慣にはそれなりの意味があったわけだ。納得した。
感覚が鈍くなると、画像に出る光や煙も弱くなる気がするが、既に形を観て判断する段階は過ぎたので、ないがどう起きているのかがすぐに分かる。
「わたしを見て」と叫んでいる者がいるわけだが、それが一人ではないだけに煩わしい。腕を掴まれている時の感触などは、それに気付けぬ方が良かったと思う。
「蜘蛛の糸」を認識してからは、どれがどういう状況を指すのかが分かるようになってしまった。知らぬ方が幸せなこともある。