◎昭和の話 長靴にお金が落ちている
当方が子どもの頃、商店主だった父は早朝から市場に出掛け、戻って来るとそのまま魚を捌いた。冬には夕方以降、黒豆の買い取りがあったから、夜遅くまで店を開けていた。さぞしんどかっただろうと思う。
時々、父が長椅子に倒れるように寝ていたのを見た。
毎日が必死だったから、子どもの面倒など見られない。
兄も当方も、自分のことは自分で全部やった。
兄は上手だから、夕飯時には親戚とか友だちの家に上がり込み、ちゃっかりそこでご馳走になっていた。
当方はひと付き合いが下手なので、自分でご飯を炊いてみたり、ラーメンを茹でたりして凌いだ。
父が小遣いなどに気が回るわけもなく、家族一切を放置した。父のしんどさは子どもらにも分かっていたから、別段不満にも思わなかった。自分で空き瓶を売ったりして小遣いを作った。
ある時、家に上の叔父が来て、当方に言った。
「おめえは親父に小遣いをもらっているのか」
当方が黙っていると、叔父が入り口に行き、父の長靴を持って来た。
叔父は「ほれ見てろ」と長靴を引っ繰り返す。
すると、じゃらじゃらと百円玉や十円玉が転がり落ちた。
「おまえの親父は市場で金のやり取りをするが、小銭は面倒だからズボンのポケットにそのまま入れる。だがいつも何百円とポケットに入れていると、穴が開いて小銭が落ちる。長靴に溜まるが、面倒だからそのまま履いている」
だから、靴を引っ繰り返せば、いつでも小遣いが手に入るんだぞ。
叔父の話はこれだけではなかった。
事務室に長椅子があったが、叔父はその長椅子の背もたれの隙間を割りばしで探って見せた。
すると、そこからも小銭がざらざらと出た。
父のポケットから零れ落ちた小銭が椅子の隙間に挟まっていたのだ。
「長靴とソファを見れば小遣いには困らねえぞ」
叔父の言葉通り、それ以後は、毎日四五百円の小遣いが手に入った。必要な道具は割り箸だけ。
ひと月1万5千円くらいは、長椅子から拾えたので、昭和四十年代の子どもの小遣いには十分だった。
父もそれを知っていたが、別段何も言わなかった。
当方が週末に母のいる病院に行くための金にすると分かっていたからだと思う。
バス代が片道1時間半乗って五百円くらい。ラーメンが160円、映画を観るのが四五百円くらいだった頃の話だ。
まだ小学三年生くらいの時でも、いつも三万円くらい持っていた。
街をフラフラしていていたのに一度もカツアゲされなかったが、山から出て来た貧乏そうな子どもだったからだと思う。見た目お金など持ってはいなさそう。
四十年代には、道路も街並みもどんどん変わって行った。あの頃の「日々良くなって行く」感じは、その後は絶えて感じたことが無い。物凄く良い時代だった。