日刊早坂ノボル新聞

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◎家人の誕生日祝いは菊花展

家人の誕生日祝いは菊花展
 家人が「誕生日のプレゼントは菊の花ね」と言うので、菊花展に出掛けた。
 途中であるコンビニの前を通ったので寄ってみた。二人で出掛ける時には、ここでコーヒーを買うのが決まりになっている。
 この系列店のコーヒーは、店員が淹れてくれるのだが、この店には一人上手なオバサンがいて、この人が淹れると味が違う。
 家人が買いに行ったが、カップを二つ抱えて戻って来た。
 「今日はバリスタがいたから良かった」
 当家ではそのオバサンのことを「バリスタ」と呼んでいる。
 それくらい味が違う。
 当方はコロナに感染してから、コーヒーが「雑巾水」の味になった。モップを洗った時のあの匂いの水だ。味をみたことはないが、そんな感じの苦い味ということ。
 普段はやたら不味いのだが、ここのバリスタの淹れるヤツはきちんとコーヒーの味がする。
 「コンビニでは勿体ない腕だな。自分の喫茶店を持てばいいのに」
 「腕を評価されぬ経営体」と、「違いの分からぬ客」のいるところでは、それこそ宝の持ち腐れだ。同じ機械を使って淹れているのに、他の人とは味が全然違う。
 手順や、その手順の一つひとつの時間を変えるだけで、全然別の味になる。スゴい。

 菊花展はこじんまりとしていた。
 コロナ以前の1/3か1/4の規模ではないか。
 家人が以前、係の人に聞いたところでは、「作る人が少なくなった」とのこと。コロナの3年間はそれまでとは総てを変えたが、今も影響が残っている。

 

 ダンナの方は、もちろん、セルフチェックが参拝の目的だ。
 額に煙玉が出ているが、ハゲに日光が反射したものではなく、白い煙の玉がかかっているということ。これはいつものことで、これが当方の標識の一つ。
 左肩に多く影がたかっており、バランスが悪い。肩の痛いのが治らぬのはこのせいか。肌色の触手みたいなヤツが首にかかっているので、何かしらこの分野の影響があるようだ。

 さすがこの季節は面白い。
 最後の画像では、後方に男女二人が映っているが、二人の中間にグレーの煙玉が出ている。これはあまり宜しくないタイプの煙玉だ。そもそも、この位置、このサイズだと、二人はステップの一番上か空中にいる筈で、生身の人間でも人間以外でも、状況的に興味深い。景色(光)を歪めたか、あるいは二人は人間ではないかのいすれか。
 手前の女性はガラスの継ぎ目で二重映りしているように見えるが、右側は男だと思う。継ぎ目を移動させて片側の像に重ねると合わないので、二重映りに見えるように偽装してあるということ。
 神無月周辺は、あの世が活発に顔を出すから、他人を見ている分には面白い。
 最初の頃は「幽霊が乗ってる!」と緊張したが、今では「別にフツー」になった。誰でも周囲には、常にそれとわかるような人影を連れている。この時期に限ったことではなく、いつも同じ状態なのだが、たまたま今はそれを検知しやすいだけ。そういう季節が今ということ。

 幽霊は基本的に「心だけの存在」だと思えば分かりよい。
 心は生きた人間の中にもあるが、眼には見えない。
 たまに条件が合えば、視覚的にとらえられる「こともある」と思えば、状況を理解しやすくなる。
 存在のありかたとしては、数字の「0」と同じ。
 存在するが、何物も及ぼさない。いてもいなくとも変わらない。だが、故意に関わろうとすれば、重大な危機をもたらし、総てが無に帰する。
 霊を「レイ」と呼ぶのには訳がある。霊は零のこと。
 「存在しているが、関われない」のが特徴だ。
 とりわけ面白いのは、「存在しないのと同じ」状況なのに「共感は出来る」ことだ。
 心は波に似た特徴があり、音波と同様に他者に移ることもある。同じ響きを持つ者の間では、交信(共感)が出来てしまう。
 こういった原則論を理解すれば、あの世について「特定の信仰によらずに」あるいは「特定の信仰を頼ることなく」観察出来る。
 心の中では「主観的に想い描いた受け止め方」が現実そのものになる。

 脱線した。
 気心の知れた相棒となら、150円のコーヒーを車の中で一緒に飲むだけで十分に楽しめる。これが自分への教訓だ。

 

追記)後ろの二人については、短髪の男性の方に女の執念がまとわりついていると思う。たぶん、別に女がいて、その女がこの女性のことを憎んでいる。

 生きている者なのか、死んでいる者なのかは、直接見てみぬと分からない。

 グレーは悪意の色だ。
 黒とは意味がまったく違う。