◎『鬼灯の城』の裏側 その後の南部信直
九戸一揆を鎮定すると、蒲生氏郷は二戸にそのまま滞在して、北奥を監視した。
南部信直は宮野(九戸)城が落城すると、その足で釜沢を攻め、二日の内に釜沢館を包囲した。
特に釜沢方が抵抗したわけでもなく、九戸戦には参加せず中立を守っていたのだが、それを許さず領地を取り上げようとしたので、釜沢方は館に立て籠もった。
なんだか「小田原攻め」に似ていると思う筈だが、理屈はその後の羽柴秀吉と同じで、「参戦しなかった」ことが懲罰の理由だ。
この時、館攻めに当たったのが鹿角の大光寺左衛門で、兵力は二千。
ここからは口碑だ。
通常、非戦闘員は館の外に逃がし、攻め手もこれを見逃すのだが、南部軍はこれを許さず攻撃した。
館門が破られ、南部軍が館内に殺到すると、女子供が逃げ惑ったが、大光寺は全員を殺した。
もちろん、「やれ」と命じられていたからで、上方が不審に思えば、自分が逆の立場になる。糠部の侍は顔見知りで、かつての近隣に対し残虐なことをするのは忍びないから、遠方から来た大光寺が任に充てられた。
釜沢淡州がどのように殺されたかはよく分からぬが、たぶん、捕縛は想定されておらず、周りから矢や銃弾を浴びせられたのだろう。
この後は後世の捜索だと思う。
この後半年くらいで、領内の平定が終わり、南部信直が下田館を訪れた時のことだ。
枕元に己が殺した釜沢淡州が現れ、「ぬしは無辜の民を殺したから、一族に祟る」と言った。
この後は、毎夜、淡州が現れるようになり、親族が正体不明の病気になった。子どもの一人は死んだと思う。(おぼろげな記憶だけなので不確か。)
するとある僧侶が「法要を催して淡州の霊を慰めると、凶事は収まる」と進言した。
そこで信直は大々的な法要を主宰し、淡州と釜沢の民の鎮魂に努めた。
伝説では、その後凶事が鎮まった、とあるが、信直はよく分からない急病で亡くなったと思う。この辺は藩史に書かれていることと地方誌に記載されていることはかなり違う。
町村誌を眺めていくと、断片的な記述が沢山あるが、口碑でもあり採用されなかったと見える。
ま、残虐の限りを尽くした羽柴秀吉が「善良な人」みたいな描かれ方をするから、歴史などそんなもんだと思う。