◎霊界通信 R061113 「あの世(幽界)の実際」
前回の「そこにはいない筈の女」の事例は、あの世(この場合は幽界)を理解するよりよい素材だ。
もう一度、過去のケースを振り返って、あの世を考える。
1)これまでのおさらい(メモ)
理解するには共通の言葉が必要なので、用語と基本認識を整理する。
「霊魂の三次元」: イ「肉体の中にある場合」は「魂」。
ロ「肉体はないが自我がある場合」は「幽霊」(幽界の霊)
ハ「自我を持たず断片的な記憶や感情だけの場合」は「霊」(霊界の霊)
ハの解釈が難しいが、「母を想う気持ち」は個々人によって質が違うが、「誰にとっての」を取り去った「母への思慕」という共通の感情がある。要は主語の無い状態や動作を想定するとイメージしやすい。
「幽霊という存在」: 肉体を持たず、自我だけの存在で個人としての感情だけがある。
一発で説明できる画像が、令和2年の画像だ。
これは1月27日に神社の神殿の前で撮影したものだが、私の前に人はいない。
ところが、ガラス窓を拡大して見ると、左前方に男性の姿がある。何か宇宙服のような消防着のような衣服を着た男性だ。(これは後になり防護服だと分かった。)
男性の立っている位置には、霧のような煙のようなものがあるきりで、「人はいない」のが明白な事実だ。この場合、外の状態とガラス窓の景色の両方が写っているので、疑いなく断言できる。
特記すべきは、これが1月27日に撮影したものだということ。
最初の感染者は横浜のクルーズ船で日本医着たわけだが、それがこの数日後の話だ。
まだ「新型肺炎」「武漢肺炎」と呼んでいたが、この後数か月で「コロナ事態」が本格化した。
これが始まる前のことなので、撮影当時は「防護服の男」の意味が全く分からなかった。
そもそも「防護服の男」だと分かったのが半年後の話で、何人も「まだ起きていない事態の想像は出来ない」のだった。
ちなみに、幽霊は可視域の境界線を跨ぐ存在なので、目視ではあまり見る機会が無い。
ただ、「カメラで撮影すると人間の可視域よりも幾らか外の波長の光を細く出来る」特性から、目視は出来ずとも画像に人影(幽霊)が写ることはある。
また、ガラスには光を「透過させるもの」「透過させぬもの」に二分し、景色の像を跳ね返す性質があるが、このガラス面に映る(跳ね返す)光には幽霊を可視化する効果のある波長光がある。このため、ガラス窓に映る景色には、幽霊が映ることがある。
要は「ガラス窓に映る景色」を「カメラで撮影」すれば、幽霊を可視化するのに最適な環境条件になる。
(当たり前だが、この他に光の強度照度や角度、湿度などによっても違いがある。)
「防護服の男」の最大の発見は、「幽霊にも物的基盤がある」ということだ。
この男はガラス窓の合わせ目に映っているが、左右のガラスに二重に映っている箇所がある。
これはすなわち「物として存在している」ということを示す。
幽界は想念だけの存在ではなく、物的に存在している。物的存在であれば、見る側の都合に関わらず存在しているということで、これを見るには特別な個人的能力は必要が無く、検知するための環境条件を整えさえすれば誰にでも存在を確認出来ることになる。
私が頻繁に「霊能者というものは存在しない」と言うのは、「幽界は物理的なものとして存在している」とことによる。
同じように可視域が限定される身近なケースでは、近視や老眼が挙げられる。いずれも見えるもの見えぬものの範囲が人によって異なる。「近視」や「老眼」は「特別な能力」でないのと同様に「幽霊を見ること」も能力ではない。条件を揃えれば誰にでも見えるようになる。
次の画像は、今年の一月に撮影し、これまで頻繁に掲示して来たものだ
目視に最も近い状態のものは、最初の画像だが、これに異常を感じる者は殆どいない。
だが、私は幾年も調べて来たので、「光源からの光の進行方向」とそれによって形成される「影」を観察する習慣がついているので、画像を見た瞬間に違和感を覚える。そこで違和感のある個所を注視すると、景色に紛れて人影が立っている。
二枚目が同じ画像に、丸印を付けたものだ。こうすると、左右に子どもがいると認識しやすくなる。 左上には「煙玉」があるだろうと思っていた程度だが、今朝見直すと、どうやら男の顔が隠れているようだ。
ただ、幽霊は半透明、もしくはほぼ透明であることが多く、景色に溶け込んでいる。
よって、景色と見分けがつかぬ一方、「たまたまそう見えた」ものを完全には排除出来ない。
その名の通り、「朧げで幽かな存在」だ。
これを補足し補佐するのが、視覚以外の情報だ。この温泉旅館では、時々、声が聞こえる。
これを撮影した時にも、私だけでなく家人も「かやかや」と囁くような声を聞いている。実際には、視覚的要素だけでなく、聴覚や触覚などを総合して存在を確認しているわけだ。
「触覚」というのは、「触られることがあるから」で、典型的な感覚は「蜘蛛の糸がかかる」感触だ。
幽霊が霧煙にせよ、実体として存在しているなら、それが皮膚に触れば何らかの感触は残る。ただ蜘蛛の糸の世にごく僅かなので、それが幽霊の手によるものだとはなかなか気付かない。
ちなみに、この温泉旅館で会った、この子どもは、この地にいたわけではないかもしれない。子どもの声は過去に幾度も聞いており、助言してくれている。私に関わる存在なのかもしれぬ。
なお、この画像の右側の少女は長椅子に足を掛けているが、この場所にはベンチやそれと見紛う物が一切存在しない。別の世界にいるわけだが、もちろん、幽界だ。
2)何故に違和感を覚えるのか(「存在しない女」)
同じ神社の同じ撮影ポイントで、何千枚も撮影井して来たので、ガラス窓にどのように景色が映るかは承知している。
例えば、もし左側の女が、私より前、ガラスの近くにいたなら、このサイズは分かる。
だが、その場合、女性の姿は画面のもっと下になくてはならない。
これは単純な遠近法の話で、フラットな位置で撮影したなら、遠ざかるほどガラス面に映る景色は上の方に位置を移す。
この女性は物理的法則に従っていないのだが、幽界の関与は、光の進行を歪ませる効果を持っている。
簡単に言えば、「幽霊がいるところでは、周囲の景色が歪んで見える」ということだ。もちろん、程度の差はある。ほとんど違いが見えぬ時もあるのだが、大体は後ろにある建物のかたちが歪んでいたりする。私はむしろ、そっちを先に探す。人影は景色に隠れることがあるが、景色自体が歪んでいればそれと分かるからだ。
問題は、この画像の気色悪さは、右の女性の存在によるものではないということだ。
この女性はどこか別の方を向き、誰かに語り掛けている。
通常は、自分に視線が向けられていない限り、こんな気色悪い圧力を感じることは無い。
「眼は心の窓」で、どこかからこっちを見ている視線がある筈だ。
そう考えて、先ほど再点検してみると、すぐ隣に答えがあった。
柱のところに眼がふたつ開いていた。拡大すると瞳が見えるので、確認して見るとよい。
(もちろん、あまりお勧めはしない。眼を覗き込むことで接点が生まれることがある.)
ここで再び全体像を眺めると、疑わしい箇所が沢山ある。景色の中に溶け込んでいるので、見間違いもあるわけだが、どれが本物でどれが偽物かを正確に線引きする必要はない。
ここでは、「自分に悪影響があるのかどうか」だけを考えると良い。もしそれがある可能性があるなら、四の五の考える前に、早期に手を打つことで難を逃れられる。
ちなみに、温泉の子どもの画像には、遠景で見ると、かなり沢山の霊体が写っていると思う。
幽界に繋がっているので当たり前だが、殆どの人が認識し難いと思う。