日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌 R070208 心のスイッチ

病棟日誌 R070208 心のスイッチ
 朝の問診の際に「腰など関節の調子」を問われたので、「少し改善された」と答えた。このまま幾らかは良くなるかもしれん。
 もちろん、「あの世の者と交渉したから」などとは言わない。
 そんなのはイカれた者が話すことだってことはさすがに承知している。
 ま、当方の場合、現実に良くなっているから、ただの妄想ではないと思うが、因果関係をこの世的に証明することは出来ない。
 この世とあの世のルールは違う。

 あの世(この場合は幽界)は「思い描いたことが現実として現れる世界」だ。「思い描く」ってのは主観的な眺め方なので、「主観的に構成される」と言い替えられる。
 人によって違うという意味でもあるから、他者が同じことを考えるようでいても同じ結果は生まれない。
 イメージが現実に結びつくようになるには、心のスイッチが必要で、それを探り当てられれば、起動させることが可能になるようだ。自動車のエンジンと同じで、キーを回して初めて始動する。
 心には免疫スイッチがあると言われ、ある一瞬で長患いが治ったりする。末期癌だったのに、何かのきっかけでそれが消えてしまうケースも時折見られる。
 だが、そのスイッチが何かは上手く説明出来ぬし、さらに人によって違うようだ。そこは「心を起点(スイッチ)とする起動」だということ。

 何年か前、筋膜腫に苦しめられていた時期があった。胆嚢や脾臓など複数の個所に筋膜種があり、いつもジリジリと痛む。
 二戸の宮野(九戸)城を観に行った帰りに、国道を南下中、このジリジリが出た。どうにも痛くて堪らぬので、休憩場所を探したが、田舎なのでコンビニがない。
 たまたま岩手町に差し掛かると、女児の声で「あそこで泉の水を飲むと治るよ」と言われた。
 眼を前に向けると、「御堂観音」の看板がある。
 そこで、その神社に行き、車を駐車場に入れた。
 御堂観音には「ゆはずの泉」(北上川の源泉)という湧水があるので、それを飲んだ。
 「飲むだけでなく汲んで行こう」と考え、岩手町の雑貨屋でポリタンクを買い、また泉に戻った。
 夜に実家に泊ったのだが、泉の水でコーヒーを淹れて飲んだ。
 すると、夜中に下痢をして、夜の内に五度トイレに行ったが、朝になると、下痢も筋膜種のジリジリも治っていた。
 ひと月後くらいに、ふと気が付いてみると、筋膜腫の痛みが全くない。レントゲンに影が映る病気だが、完全に消失していた。

 てなことが、時々ある。
 もちろん、行為だけを取り上げて、他の人が同じことをしても効果は様々だと思う。「泉の水を飲めば治る」という意味ではない。スイッチを持っているから影響が生じる。
 ちなみに、神社の前で「そこに」と示唆した女児は「お稚児さま」(ユキちゃん)だと思う。当方の傍に「女児がいる」のを知ったのは、この時より数年後の話だが、それと気づき探してみると、人生の各所でその気配があった。
 こういうのは、俄かには信じられぬ話だが、当方の場合はきちんと画像に残ってくれるので、否応なしに信じざるを得ない。
 声を聴き、その声と交流が発生するし、姿も見る。
 自分自身が見極められるかどうかの問題だ。
 いつも記すが、こういうのは他人にどう見えるかは関係ない。
 最近、ようやく理解したが、他の人には当方が見えている者の1割2割しか見えないようだ。実際には、見えないのではなく「瞼を瞑っている」だけだと思うが、いずれにせよ意味は変わらない。眼を瞑っている者に、「蜂のかたちや色(例え)」を説明するのは時間がかかる。
 その上、他人が受け入れらるかどうかは、当方の与り知らぬ話だ。あの世と関りを持つことを拒否し、存在することも否定する者にとっては、当方らの見ているものは妄想に過ぎない。何故なら拒否しているから受け入れられない。
 皆(万人)で共有できぬ情報だから、「それは妄想である」と言っても間違いではない。どうせ信じられぬし、何も生まれないのだから、その判断は正しい。
 その意味では「自分は神だ」という教祖様から高額な壺を買って、喜びを得る方が満足が得られるかもしれぬ。

 とりあえず杖に頼る必要が無くなった。
 老病死は必然だから、痛みがゼロになることは無い。
 だが、昨日まで感じていた「このまま衰えて死ぬのかも」という予感めいた気持ちは、心中から去りつつある。
 「いずれ滅びるが、それは今ではない」

 当方の取り柄は、大体の悪縁(悪霊)と仲良くなってしまうこと。「アモン」や「でっかい女」らはコテコテの悪霊だが、別段何も起きない。最初から悪かった幽霊はおらず、悪霊になるにはそれなりの事情があった。それを解きほぐせば、悪霊が悪霊ではなくなる。

 世間には好奇心で心霊スポットを探検に行く者がいると思うが、もし行くなら、「お焼香の一本でもしてやれ」と言おう。
 強い悪霊ほど、仲間になった時には、心強い味方になる。
 「死者に敬意を示す」のは生者としての振る舞いの基本中の基本だ。「善果善報」「悪果悪報」は生死を問わず通用する。

 などということを考えた。
 約束をしたから、これから『縞女』のストーリーを組み立てねばならない。だが、それは、それまで当方を生かして置かねばならないという意味でもある。また死期が先送りになるのか。これで何度目だろう。

 

注記)眼疾があり、文書の校正が出来ません。誤変換が多々あると思います。