日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎病棟日誌 R070222 「ご供養の効果」

病棟日誌 R070222 「ご供養の効果」
 左の股関節以外の痛みがかなり小さくなったので、そのことを報告した。
 「右足はもう絆創膏で良いです。胃痛とかもありません。坐骨神経痛がまだありますが、それ以外は平気です」
 「急によくなりましたね」
 「余計に痛む原因が分かったからね」
 ま、坐骨神経痛ひとつでも、苦痛で唸るくらいの酷さだ。
 とりわけ、治療後に保水量が少なくなると、関節が擦れるのか歩けぬほどになる。
 鎮痛剤を貰うことにした。これでも数日前までは四か所五か所が同時に痛んだからかなりまし。

 この日の病院めしはとんかつ。
 脂身の全くない、赤身をさらに湯通ししてから揚げたような味だ。もちろんカチコチ。
 だが、既に慣れたし、脂っこいものを受け付けなくなっているから、こっちのとんかつの方が旨く感じるようになった。
 アルゼンチン人とかフィリピン人は肉を焼く時にはカチコチになるまで焼くが、単に安全性の問題だけでなく、嗜好も関係している。それに通じるものがある。
 もはや、差しの入った和牛のステーキはとても食えなくなった。
 訪日した中国人に和牛のステーキが食えず、帰国してから「日本の和牛は不味い」と触れ回った者がいるそうだが、実際、その当人にとっては不味かったと思う。普段から約肉屋ステーキを食べていれば問題ないが、煮る料理ばかり食べていたら、筋肉を柔らかくなるまで煮たものが体に馴染む。
 口の悪い言い方をすれば、美味しい和牛を食べたことが無いからしたが受け付けない。
 食は習慣だから、そういう要素も当然ある。
 もちろん、「だから和牛は不味い」と考えるのは、教育が足りないことによる。第三者的に眺めたり、俯瞰的に眺望する術を知らないわけだ。
 人はそれぞれで、万事がそんなもんだ。己の視座ばかりに囚われて「他人はオレとは違う。バカな奴らだ」と考えるのも皆が大なり小なり同じだ。中国人は得手勝手なものが多いが、日本人も大して変わらない。考え方が違うから、中国人は皆醜く見えるが、先方の価値観だと、たぶん、こっちも醜い。
 ま、なるべく交流せず、各々の領域で生きれば問題なし。
 もう日本に来るなよwww。

 治療中に左腰が痛んだが、これは四時間の間、同じ姿勢で固まっているせいだ。寝返りも打てぬから、かなり苦痛だ。
 「こりゃ帰りには苦労するぞ」
 時々、帰宅中に動けなくなることがあるほどだ。所かまわず腰掛けて、痛みの引くのを待つ。当方より後に来たジーサンたちが、当方より先に終わってベッドを発つ。
 当方よりも治療時間が1時間短いわけだ。
 トホホ。七十台半ばのジーサンよりも先を行ってら。

 だが、この日ベッドから立ち上がってみると、もちろん、痛みはあるものの、普通に歩ける。
 食堂に行き、更衣室に向かったが、特に問題なし。ちょっと痛いだけ。
 ここで「なら買い物に寄って行こう」という思考をするのは、「多少の持病がある」程度の発想で、障害者になると、ほんのちょっとの負荷オーバーで立ち行かなくなる。
 さすがに学んだわ。
 雌伏すべき時には、何も考えずべたっと身を伏せるべし。

 車に乗る時に「坐骨神経痛も改善できるかもしれん」と考えた。まずは負荷のかかり過ぎぬように動かすことからだわ。
 あの世対策が効果を示す時には、ほんの一瞬でガラッと変わる。不具合が起きる時も同じで、廃病院の二階の窓に、あまり宜しくない女の影を見た時には、その日の夜に右脚全体が紫色になった。何もせずされるがままだと、三日くらいで死ぬ人は死ぬ。
 はっきりした変化が出ると、「もしや・・・じゃないか」が確信に変わる。確定的な要因がよく分からなくとも、少し広い視野で手を打つことは出来る。

 出来ない理由を探すより、「現状で打てる手を打ってみる」姿勢が大切だ。
 これが自民党の政治家には分からない。たぶん、一生分からないと思う。だから出来ぬままだ。
 もうこういう人は捨てて「出来る者」を探そう。