◎病棟日誌R070315「天照大皇神」
◎病棟日誌R070315「天照大皇神」
治療中に看護師のO君がベッドにやって来た。
「俺に何か悪いのが憑いていないですか?」
「どうしたの?」
「もはやパワハラだろというくらい酷く上司に言われます」
ああ、この子は「職場の叱られ役」だったな。
職場には、こういう役割の若手がいるし、かつ必要で、その子を叱責するところを他の職員に見せ、空気を引き締める。
こういう役回りは、まず「少しトロくて同じしくじりを複数回する」「厳しく叱ってもすぐに仕事を辞めたりしない」タイプだ。
樹木に例えて言うなら、樫木で、固くてなかなか加工が出来ない。杉の木みたいに簡単に切ったり削いだり出来ぬので手が掛かる。じっくりと前進するタイプだ。
だが、仕事を覚えるのは遅くとも、収得したことは忘れぬし、原則論を守るから、あとで業務の柱になって行くことが多い。
何十年も修行をした後で一人前になる職人と同じ。
一方、分かりが早くて、何でもさささっとやれるタイプは、「要領よくやる」ことを考える。近道早道を進もうとする嫌いがあるから、いずれしくじる。その時には業務の中の重要なポジションにいたりするので、失敗が失敗では済まず、会社の存亡に関わる事態になったりする。
頭が良いと、早道を考えるし、そのために平気でズルもする、
功利的な発想が勝ると、結果的に仕事がうまく回らなくなる。
上司がその辺の加減を弁えて、構図を分かったうえであえて叱責するのは、その行為自体に意味があるから。もちろん、ただ目の前のことだけで怒り散らす者もいるから、そこは状況をよく見る必要がある。幸いなことに、看護師は就職口には困らないので、「こいつはただ怒り散らしているだけ」だと思ったら、転職すればよい。
O君は一般企業から職替えをして、学校に入り直し、看護師になったから、最初から看護科や看護学校で教育を受けた者とはスタンスが違う。普通の看護師からすると、その微妙な違和感も叱責の遠因になる。
そこで「だが、こういう話は客がすることではなく職場の人間がすることだな」と考えた。
少し考えさせられたが、まずは直接の質問に答えることにした。
「悪霊が取り憑いて悪さを為すというのは滅多に起きることではないよ。多くは心に働きかけるだけだね。人間関係のことは、人事の領域で、各々が自分の考えで快活するのが大切だ」
ま、前にO君の背中に老婆が乗っているのをまともに見て、憑依霊を外す手立てを教えたりした。
それを実践するのは、危機が去るまでの話で、問題が無くなると、やらなくなる。「喉元過ぎれば」なんとやら。
「最もダメなのは、人事の不都合を悪霊のせいにすることで、思考がマイナス回転をする。今の不幸は悪霊の仕業だ、みたいな妄執に囚われる」
悪霊なんか、常時、誰の後ろにも複数が立っているもんだ。色んなことを吹き込むが、それに影響されなければよいだけ。
「俺は実際に、稲荷の眷属に取り憑かれたことがあるが、そいつは僧侶が転じたものだった。誰もいないところでばったばったと音がしたり物が倒れるくらいでは済まずに、スマホから爺さんの声で『取り憑いた。取り憑いた』と叫ばれた。これを綺麗にするのに、八か月くらいかかったが、それくらいの障りが出て、初めて『悪霊の仕業』だと言える。他は努力と心を入れ替えるだけでどうにかなる」
だが、こういう話をしても、現状の問題解決にはならない。
「差し当たって、部屋に天照大神のお札を入れることだね。神棚がなくとも、今は壁掛けのお札を神社で貰える。家の信仰は何?」
「真言宗です。家には神棚がありませんでした」
「天照には宗教の違いはない。太陽だからな。世界中で太陽神を否定する者はいない。そもそも神道と仏教は競合しない。入り口出口の関係だからな」
天照大神(太陽)を否定するようなら、そんな信仰・宗教は嘘っぱちだから、すぐに宗旨替えすべきだ。
世界には唯一、太陽(朝日)を否定する民族がいるが、やはり罰が当たり、その国は程なく亡びる。二三十年も掛からない。
「お札を掲げて、朝晩手を合わせているだけで、びっくりするほどガラッと変わるよ」
まずはそこからで、次のステップはそれを過ぎてから。
O君にこれがすぐに伝わるとは思わぬが、少しずつ改善されればよいと思う。
O君は横入組だから、同年齢の他の看護師に較べると、経験や技量は幾らか落ちると思う。だが、脇で観ていたところでは、患者への細やかな気配りは他の看護師より行き届いていると思う。
死に間際の重篤な患者には、気配りが身に染みる筈だ。
O君なりの長所は必ずある筈で、いざO君が「退職します」と言い出せば、上司たちは凄く困ると思う。
帰り際に再びO君に会ったので、「まずは気分転換をするように」と声を掛けた。
次はO君にも、お稚児さまのお守りを上げようと思う。
困難に直面する者は「信じる」土壌がある。幸運は「必ず良くなる」と信じられる者に来る。座敷童を自分尾心にスイッチを入れるきっかけにすればよい。
礼状が来たケースが幾人かいるが、「信じられ」「信じて見たら」、実際にそれを感じさせる出来事があった、ということだ。