日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話R070411「穏やかな場所」

五歳の時に初めて「亡者の群れ(百鬼夜行)」を見てから、幾度となく「亡者たちに追いかけられる夢」を観て来たが、ついに令和元年に追い付かれた。

◎夢の話R070411「穏やかな場所」
 4月11日の午前2時に観た夢です。

 我に返ると。俺はベンチに座っていた。
 「ここは公園か?」
 周囲は林で、通路と芝生の庭園が見える。
 少し離れたところにもベンチがあり、女性が一人座っている。
 三十台くらいだが、清潔な印象だ。若者特有の生臭さがなく、品がある。
 「あの人は元々、一級建築士だったな」
 女性の外見とはそぐわぬ仕事だが、こういうのには俺は敏感だ。経験と勘が働く。
 「なんだか、ここは穏やかでいい場所だな」
 ここで自分の座るベンチに気づく。
 これは、あの子が座っていたベンチだ。
 あの「お稚児さま」の画像を撮影した時には、その場所にはない筈のベンチがあり、あの子はそれに膝を載せていた。
 「じゃあ、ここはあの世なんだな」
 ならあの子がいるはずだが・・・。
 すると、すぐ隣から声が響いた。
 「いるよ」
 目を向けると、ついさっきは空だった隣に、あの子が座っている。
 「おお。そこにいたのか」
 「ボクはいつも傍にいるよ。君が気付かないだけ」
 「いや、気付いているさ。たまに写真の中に見えるからな」
 女の子なのに、この子は自分のことを「ボク」っていうんだな。幼児には時々いるけど。
 「ボクは幼児じゃないよ。好きでこの格好をしてるだけ」
 そう言えば、アモンが夢に出る時も男の子の姿をしている時があるな。正体はバケモノだが、子どもにも女性にも化けられる。

 「ところで、もうこっち側に来るの?」
 「どうやらそんな感じだな。俺は秋まで持たないかもしれん。実際体調がそんな感じだし、今回はこの世の滞在期限延長の雰囲気がないから」
 検査を受けると、十か所以上が赤点だ。それも「すぐに対処が必要だ」と書いてある。
 「なら、ここに来ればいいんだよ。ここは良いところだよ」
 それは本当だ。晩春から初夏に近い季節で、とにかく穏やか。過ごしやすい場所だろう。
 「でも、俺には務めがあるからな」
 「あっち側で?」
 「ああ。行き場を失った亡者たちが彷徨っている。誰かが統制をつけねば収拾がつかなくなってしまう」
 俺は亡者たちがてんでに勝手な行動をしないよう、見張ったりけん制する役目がある。牧羊犬の仕事だな。

 「初めてあいつらを見たのは俺が五歳の時だ。夜中の二時に、家の二階の窓から外を見ると、遠くの方から隊列がやって来るところだった。俺の家の百数十㍍北には甚平衛坂という坂があるのだが、その坂を上って葬式の行列みたいなのがやって来る。白い幟を立てていたから、葬列だと思った。つい数日前に近所の年寄りが死んで、そんな葬列を見たばかりだった。だが、その隊列が家の下に来た時に、この世の者ではない奴らだと分かった。死に装束の者も居ればバケモノみたいな奴もいた」
 直接に自分の目でそれを見たのは、それが最初で最後だ。

 だが、それから幾度となくその亡者の隊列を夢に観た。
 一年に五度は観たから、もはや数百回に及ぶ。

 夢はこんな具合だ。
 道を歩いていると、遠くの方に群衆がやって来るのが見える。
 物凄い数だ。前の方だけで数千人はいる。
 「あれは死人の群れだわ」
 すぐに反対側に逃げる。
 だが、逃げるうちに次第に追い付かれて来て、先頭の顔が見える距離になる。
 そこから先は様々だ。大岩や建物の陰に隠れようとする。
 この夢を観る度に、亡者たちが間近に迫って来るのだが、ついに追い付かれ、手を掛けられたのが令和の初め頃だ。
 この夢の内容とシンクロするように、現実世界でも、神社の前で撮った画像に、「そこにはいない筈の人影」がデロデロと移った。
 男女が俺の体にとり付いていた。
 「その後は俺自身を撮影すると、煙や手、人影が写るようになったから、自分がその隊列と行動を共にしていると分かったんだよ」
 亡者が隊列を離れ、暴走しないように見張っているが、集団から出た亡者を元の位置に戻すために、言葉をかけお焼香をし慰める。
 このため、俺はひと月にミ箱くらいのお線香を消費する。
 それだけ数が多いのだ。

 「今は何万人なの?」
 「見えるのは府中競馬場に満杯くらいの規模だが、たぶん、その数倍はいると思う」
 「府中一杯」が十万人だから、三十万とかだな。
 もはや手に余る。 
 「一人じゃ無理だよ。なすがままに任せればいいのに」
 「そんなことをしたら、峠の向こうの街が亡者で溢れるだけでなく、この世にもばらばらと出て来て、秩序を壊す。亡者たちは理性を持たぬからな」
 俺の目にはぱあっとキノコ雲が空に上がるさまが映った。
 「生も死も繋がっていて、命の循環のサイクルに従っているのに、殆どの人間は死ぬまでのことしか見ない。幼稚園児は園庭の外の世界を知らないのに似ている」
 ただ「死」だけを見て、それを恐れ判断する。よく見て、よく考えれば、自我の再生成プロセスの途中だと分かるのに、それをしない。死後の存在を示す証拠はあるが、ひとの知覚で捉えにくいから、絵空事で埋める。あの世は自然科学が追究すべきジャンルなのに、妄想家の物語を信じようとする。これは目の前の死が怖いからで、溺れる者はたとえそれが藁でも紐でも、助かろうと掴む。

 「じゃあ、やっぱりあっちの街に行くんだね」
 「峠の先は幾度か見た。あれは妄執に囚われた亡者たちの棲む場所だ。欲に塗れた現実世界に似ている。というかそのものだ」 
 幽界は地獄とほとんど同義だ。今は現実世界もそれに重なっている。
 そこには、亡者を統制し「生ける亡者」を幽界に導く者が必要だ。

 「君が自分で決めることだから、ボクは何も言わないよ。でも、いつも君の傍にいるから」
 遠くの方で数人の若い男女が楽しそうに話している。
 ここも幽界と同じように、自我を保っていられるところらしい。だが、幽界とは違い穏やかな世界だ。
 ここにいる限り、また人間に生まれることはないが、このままここに居るのも悪くなさそう。
 ひとが死んだ後、自我を解き放つ(=成仏する)まで滞在する世界は、二通りあるらしい。殆どの者は幽界に行き、生前さながらの欲と妄執を抱えたままで居る。三途の川と現実世界の間は、専ら妄執に取り憑かれた亡者(幽霊)だけがいるものと思っていたが、お稚児さまらがいるところははそうでは無さそうだ。
 幽界の中に異なるセクションがあるのか、あるいは別の世界なのかはよく分からない。

 「それに、俺がもしここに留まることにしたら、亡者たちがそれを嗅ぎつけて、大挙して入り込もうとするかもしれん。いやきっとする」
 獣を可愛がるだけだとひとを甘く見て勝手な振る舞いをするようになる。しつけることも必要だ。
 亡者たちも、愛情をもって接することで自分の境遇に気付く者も居るが、耳を貸さず暴れるだけの者も居る。気の触れた者を優しく説得しようとしても理解出来るわけがない。それと同じ。
 「生きている者も変わりない。見たいものだけ見て、見るべき難題には瞼を固く閉じて見ようとしない」
 こちらにも、たまにしつけが必要なようだ。

 晩春の日差しが燦々と降り注ぐ。
 穏やかな人々を眺めているうちに、俺はベンチに座ったまま眠りに落ちた。
 ここで覚醒。

 長い夢で、後半は大半を忘れてしまった。必ず夢を記憶したまま目覚めるのに珍しい。このため、推測で埋めたので、夢の話が前後した。

 

注記)眼疾で文字が良く見えないので、誤変換があると思います。