日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎闘病日誌R070506「小股の切れ上がった女」

◎闘病日誌R070506「小股の切れ上がった女」
 火曜日の朝、通院前に家人に愚痴をこぼした。
 「もう二十年近く病気に苦しんでいる。最初の五年は隠していたが、倒れてからは隠せなくなった」
 すると、家人は自分の知人のことを話した。
 「私の知ってる人が言うには、『自分は日本に来て、一生懸命に働いて、財産を作った。家も買ったし、経済的には恵まれていると思う。だが、幸せじゃない。何故なら、ずっと病気で苦しんでいるから』なそうだよ。お父さんは幸せ?」
 「病気をすると、あっという間に財産が無くなる。俺もそうで十年で大半の金を治療に注ぎ込んだ。人生の中では健康が一番大切なことなんだよ。俺は『もうそろそろいいかな』と思う段階に来ている」
 と口にして、まだ答えになっていないことに気付く。
 「幸せか?という質問への答えは、もちろん、幸せだったさ」
 自分には過ぎた妻を持ち、子どもたちは健康だ。
 今年は年頭から四か月間、ほぼ寝たり起きたりの状態だ。
 怒りにかられたり、自暴自棄になることもあるが、そんなのは当たり前だ。生き続ける限り、何かしら苦痛は続く。

 また新しい医師が来て、同じ話の繰り返し。
 「動脈のカテーテル治療をやったほうが良いですよ」
 非常勤でつなぐ病院の嫌なところはこれだ。その都度医師にゼロから説明する手間がかかる。面倒なので、黙っていることにした。
 私は造影剤の副反応が出やすいから、治療そのものが命に関わる場合がある。「脚の血行はよくなりました、患者は亡くなりましたが」ってケースはよくある。

 先週、話題に上ったのは「小股が切れ上がる」という言い回しだ。
 「良い女」の代名詞のようなものだが、具体的にどこがどうなっているか分からない。
 これまで調べたことがなかった。
 「僕は目の周りのことだと思っていました」とオヤジ看護師。
 「俺は足の指のことだと思うね」
 寝たままなので、スマホさえ検索できない。
 これを自宅で調べたので、この日、看護師に報告した。
 「『小股が切れ上がった』というのは、ネット辞書だと『背筋がすらっとしておりかたちがよいこと』と書いてあった。特に脚が長くて形が良いこよらしい。だが、信用できない」
 用例が少なく、スッキリしない。由来についても、使われ方も「よく分からない」らしい。
 「だが、股というのは『二つ以上に分かれた場所』のことを指す。脚が長いなら『またが切れ上がっている』から連想したものだ」
 それなら「股が切れ上がっている」でそのまんま。だが「小股」なので、脚の付け根のことではない。
 小さい股だから、他の場所で、残るは「脇の下」か「足指」しかない。
 「昔、誰だったか覚えていないが、これに関して書いた人がいて、その人は、女性が草履や雪駄を履いた時に、鼻緒で分かれる親指とひと差し指の間のことだと書いていたと思う」
 これはネット辞書より信憑性が高い。ま、ネット辞書はテキトーなことが多い。
 足が真っ白で、赤い鼻緒で指が嫌いに分かれていたなら、実際、感動する。
 そもそもこの言葉は江戸時代からある。脚は着物で隠れているから、「脚が細くてすらっとしている」は分からない。
 ちなみに、ネットの用例では「素股」のものが出ていたが、これは誤り。素股なら股のことだ。
 案外、私の説が正しいのかもしれん。

 依然として腰の状態が悪く、五分と椅子に座れない。
 だが、ほんの少し「改善するかもしれん」という兆しが見えて来た。ここは相棒たる「お稚児さま」の示唆が大きい。
 「あの人はキミを迎えに来たひとじゃないよ。敵だと思わず、仲よくすればいいんだよ」
 その言葉に従って、癒し水を窓際に備えているが、このせいとは言わんが、ゆっくりと改善に向かってはいると思う。
 生き続けるためには「希望」が大切だ。

 翌水曜の午前三時頃、私は居間で寝ていたが、ドアを開けて誰かが入って来た。夢うつつの状態だったので、「家人か娘か」とぼやっと考えた。髪が肩までだから家人のほう。
 朝になり、家人に「夜中に下りて来たか?」と訊くと、「私じゃないよ。※※(娘)が休みだから、そっちじゃない?」との答え。
 娘は黒い服を着ないし、髪がかたまでだったから、ここで初めて「なるほど」と納得した。
 やはり家の中にいるわけだな。
 私の姿に似せた男も出ているから、いずれにせよ「土俵際にいる」のは疑いないが、それが起きるのは今週や来週のことじゃない。
 やはり、「死を誘う者」を目視できるのは幸いだと思う。
 自分自身が死を迎えるまでの目算が立つ。
 最短でも私にそれが起きるのは秋口だ。

 女が居間に入って来るのを見て、相棒の「敵だと見なさなければいいんだよ」という言葉を思い出した。
 近い将来、もっと実体化した姿を捉えることが出来ると思う。
 あの世の仕組みを幾らかでも解明する助けになればよい。

 ひとつ忠告だが、頭のどこかに「死後も自我が残る」ことを置くべきだ。「お迎え」に会うと、最短では二日くらいで旅立つ。行くにせよ戻るにせよ、心の準備が必要だ。

 

注記1)眼疾でもじが良く見えません。誤変換があります。おまけに股関節痛で、椅子には五分と座れなくなっています。これを書くのに二日かかりました。見直す余裕はありませんので、気になる人は来ないでください。ブログはSNSではなくただの日記です。

注記2)ドッペルゲンガーは作り話ではなく、現実に現れる。自分の姿に似た者が現れたら、それは「数か月中に危機が来る」と言う意味だ。死の匂いを嗅ぎつけて、死霊が寄り憑き、自我を取り込もうとするため、自分をその相手の姿に似せる。