◎『怪談』第六話 覗き窓 早坂ノボル
◎『怪談』第六話 覗き窓 早坂ノボル
毎年、8-9月の夏季の間だけ、実体験を基にした怪談話を地方紙日曜版に連載していたが、地方紙自体が無くなってしまった。下原稿が残っているので、時々、暑気払い用に公開することにした。下原稿のままなので、校正等の調整作業は入っていない。
これはある小学校で実際に起きた話だ。
この小学校は創立百年を超える古い学校で、創立以来ずっと同じ場所に建っている。
このため今も昔の跡があちこちに残っており、校舎の裏には戦時中の防空壕がある。
もちろん、今は入り口を閉鎖してあり児童が入れぬようになってはいる。
校舎自体も昭和四十年頃に建てられたもので、かなり古びている。トイレなどは、その後幾度か改修されているが、校舎全体は古めかしい。
こういう学校なので、怪異譚も多く、休みの間にPTA活動で学校に来た父兄たちが、廊下を走る子どもの足音をよく聞く。
PTAの会合は、概ね親の仕事が終わる夕方以降に行われ、その時間帯に児童は帰宅した後だ。
児童が学校に忍び込む筈はないのだが、時折、「笑い声」や「あああ」と子どもの叫ぶ声が響きもした。
これが深夜になると、一層何者かが廊下を走り回る。宿直の先生が恐怖心を覚える瞬間なので、結果的に夜間には校舎の見回りをしなくともよいことになった。
今では監視カメラが配備されたことで、教師が宿直をする制度自体も無くなった。
この学校で年度初めに問題となるのは、新任の先生が頻繁に事故に遭うことだ。
校門の入り口を入って校舎につくまではほぼ五十㍍だが、その間に自転車で転んだり、教員の車同士がぶつかったりする。
毎年、必ず三分の一くらいの教師が自転車の転倒事故や車両事故で怪我をした。
それがいつも決まって同じ場所だ。
校門を入ると、道沿いに生垣が並んでおり、その生垣が校庭をぐるりと回った先に校舎があるのだが、どの教師も校門を入ってすぐのところで事故に遭う。
いつも同じところだが、ちょうどその辺から校庭の半分くらいは、、元々は沼があった地だということだ。
毎年、関係者の間では「水回り」には配慮が必要だから、古くからの沼を埋め立てたことで「何かその障りがあるかもしれぬ」と、囁かれる。
しかし、「僧侶や神職を呼んでお祓いをする」のも、何か迷信めいた考えに囚われているような印象を与える。このため、代々の校長は地鎮の儀式を行うことを認めなかった。
この年にも四月中に五人の教師が事故に巻き込まれ、例によって土地の因縁の話が持ち上がったが、今の校長も「まだ偶然の範囲だから」と地鎮祭の提案を却下した。
この学校で事件が起きたのはまだ春先の五月で、五年生のクラスだった。この学年は校舎の三階に三クラスが置かれており、同学年の児童は計九十二人いた。
五年生の担任は一組が小林先生(女性)、二組が仲飼先生、三組が庄司先生(いずれも男性)という先生たちだった。
最初の異変は、三組の庄司先生のクラスで起きた。
年度初めにクラス替えがあり、この街は住民の移動が多かったので、年度初めには他校から転入する児童も沢山いた。
児童たちが新しいクラスメイトに慣れるまでは、何も起こらなかったのだが、ひと月すると相互に相手の状況を知るようになった。
そんな転入生の一人に小沢君という、幾分、発達障害気味の生徒がいた。
小沢君は百六十㌢台の背丈があり、割と大柄な方だったが、日々の授業について行けなかった。
この状況を考え、学校では小沢君の母親に特別支援学級への入級を勧めたが、母親が強く「普通クラスでに通学」を要望し、そのまま通級に通わせていた。
なお、親の離別のため、小沢君には父親がいなかった。
小沢君のために授業が必ず止まる。このことを、次第に他の生徒が快く思わぬようになった。
そして五月の中頃には、小沢君への苛めが始まった。
首謀者は主に三人の男児だったが、子どもの割に陰湿、巧妙な手口を用い、傷跡が残らぬようにタオルで拳を巻いて、小沢君のお腹を殴った。
六月になると、三組での「苛め」が行われている気配が他のクラスにも伝わっていたのだが、担任の庄司先生は自分のことで頭が一杯で、小沢君の置かれた状況まで気が回らなかった。
これは庄司先生個人の事情による。
三十台の庄司先生には妻がいたが、妻は同じく小学校の教員をしていた。
この妻は大学の時に奨学金を受給していたが、教員になってから僻地の学校を希望して赴任すると、奨学金を返さずとも良くなるという制度がある。そこで、庄司先生の妻は山間の学校に単身赴任をして、週末に家に帰る生活を続けていた。
そして、赴任先でその妻は、同僚と不倫関係になった。
平日は山の中に一人で暮らしているから、寂しさもあったのだろう。日頃の話し相手だった先生と情が通じてしまったのだ。
しかし、この学校には庄司先生と以前同じ学校に居た教師も赴任していた。
その知人は庄司先生の妻と同僚との不倫を庄司先生に報せ、このことが露見した。
庄司先生は自身の離婚問題について頭が一杯で、児童に集中出来なくなっていた。
庄司先生は苛めの報告を受けると、手っ取り早く加害児とされる児童数人に話を聞いた。
他のクラスメイトに訊けば、正確なことが分かったのだろうが、遠回りはしていられない。
噂の主は普段から素行の良くない悪ガキ三人組だったので、手っ取り早くこの三人を同時に呼び付けた。
もちろんだが、三人は誰一人いじめを認めない。一方、小沢君の体を調べても、外傷が見当たらぬので、小沢君本人に確かめるが、本人はしくしく泣くばかりで何も言わなかった。
小沢君の立場では、「苛められている」と言えばさらにいじめられる恐れがあることと、うまく話が出来ないことが重なり、ただ泣くだけだ。
庄司先生は業を煮やし、「はっきり言わぬなら、苛めが無かったことになるんだぞ」と告げた。
結局、実態について調べることが出来ず、庄司先生は「双方が苛めは無いと言っている」と校長に報告した。
その実は、庄司先生には「面倒臭かった」のだ。何せ自分のことで頭が一杯だった。
担任の児童の本心を思い遣る余裕が無かったのだ。
校長に報告した後、庄司先生は小沢君に改めて「なるべく皆と仲良くしなさい」と伝えると、小沢君は返事をせず、少しの間考えていた。
数分の後、この時だけは何時になくはっきりと「先生はボクを守ってくれないの?」と言った。
庄司先生は、「もし何か問題があれば、すぐに先生に言うんだぞ」と言って話を終えた。
それから、三人のいじめっ子が、小沢君をどう扱ったのか、庄司先生は知らない。
離婚の話がこじれ、子どもの養育権をどちらにするがで、家裁に調停して貰っていたが、その審問が重ねてあったのだ。
この時、小沢君やクラスの苛めのことは、庄司先生の頭からすっかり消えていた。
それからひと月が経ったある日のことだ。
庄司先生が放課後に一人職員室に残り、雑務をこなしていると、廊下の先から「あああ」という呻き声が聞こえた。
だが、こういうのはこの学校では時々起きる。
加えて、まだ明るかったから、教室に児童が残っていることも考えられた。
声を無視して仕事を続けていると、程なく庄司先生のすぐ後ろで声が響いた。
「先生。どうしてボクを守ってくれなかったの?」
それは小沢君の声だった。
「え」
はっとして振り返ったが、そこには誰もいなかった。
だが、声ははっきりと聞こえた。気のせいの範囲ではない。
庄司先生が急いで廊下に出ると、学校中に何とも言えぬどろっとした嫌な気配がある。
すぐさま直感が閃いた。
「たぶん、俺の教室の方だ」
五年生の教室は三階で、三組は階段を上がって一番奥の部屋だった。
庄司先生は階段を駆け上がり、廊下を走った。三組の教室の前まで着くと、庄司先生は思わず足がすくんだ。
教室の入り口のところに、子どもがぶら下がっていたからだ。
小学校の教室の入り口の扉には、多く「覗き窓」がついている。
こんな入り口は、扉の上もガラス窓になっているから、戸板の上のガラス戸を開けると、そこにロープを通せるようになる。
小沢君はその後ろの入り口の窓に縄跳び用のロープを通し、そこで首を吊っていた。
もはやまったく動かなくなっており、小沢君が亡くなっているのは明らかだった。
「なんてことだ」
庄司先生は、小沢君の正面に立つと、そこで恐怖の叫び声を上げた。
「あ、ああああああ」
小沢君は椅子を入り口の下に置いて、それに乗り縄跳びのロープを結んだ。このロープはビニール製なので力を加えると伸びる。
ビニールひもで首を吊ったから、小沢君の首が強く締まり、首から上への圧力が異様に高まった。
その結果、押し出されるように眼窩から目玉が飛び出し、舌が口からはみ出て顎の先まで伸びていた。
この時の小沢君は何とも凄まじい形相だった。
「あ、あああああ」
庄司先生が恐怖に駆られて叫ぶ声が、この校舎中に響いた。
この時、校舎には用務員が残っていたが、庄司先生の声を聞き付け、急ぎ三階に駆け上がって来た。
用務員はそこで起きている事態を見て、庄司先生を後ろに引き下げ、急ぎ警察に連絡を入れた。
庄司先生は小沢君が亡くなった後、四か月の間休職した。
自分の受け持つ児童が自死した上に、その悲惨な姿を直接目にしてしまい、心にカタルシスが起きたのだ。担任であったことの重圧に加え、自身の離婚の心労が重なり、庄司先生は四か月のほとんどを病院で過ごした。
庄司先生が休んでいる間、一組の小林先生が三組の面倒も見た。庄司先生の代替の教師の手が空かず、「しばらくは補充出来ない」と教育委員会に言われたからだった。
庄司先生はこの年の秋に学校に戻って来た。
職員室で庄司先生は、「先生方にご迷惑をおかけしましたが、もう大丈夫です」と挨拶をした。
とりわけ、小林先生には世話になったので、小林先生の机を訪れ、丁寧にお礼を言った。
それから、三人の担任は、各々、自分のクラスに向かった。
一組の小林先生が自分のクラスの朝礼で、「三組の庄司先生が戻られた」という話をしていると、三階中に叫び声が響き渡った。
「ああああああ」
叫んでいたのは、庄司先生だった。
小林先生が急いで教室を出て廊下の奥の部屋に向かうと、庄司先生は教壇の端に丸くなり、後ろの入り口に視線を向けたまま、ずっと叫び続けていた。
「庄司先生。どうしましたか?」
小林先生が声を掛けたが、庄司先生は変わらずひたすら叫び続けている。
仕方なく、小林先生は職員室に連絡して、先生方に来て貰った。
それから、庄司先生は再び休職し、心療内科に入院した。
小林先生が漏れ伝え聞いたところによると、庄司先生が教壇に立った時に、後ろの入り口の覗き窓から誰かが覗いていたそうだ。
そこはちょうど小沢君が首を吊った場所だったのだが、その扉の窓から、「眼窩から両眼球が飛び出し、舌を顎まで垂らした小沢君が覗いていた」のだった。
庄司先生は、そのまま教員を辞めることになった。
さて、ここまでは、この小学校の学校区では、住民によく知られた話だ。
だが、本当に恐ろしい出来事は、この後に起きたことだ。これは記録には残っておらず、当人の関係者や地元民の一部の間だけにひっそりと語られた。
庄司先生が去った後、代用教員が来るまでの間、三組は引き続き小林先生が面倒を見ることになった。
ふたつのクラスを指導するその流れにも慣れて来た頃、いつものように小林先生は一組の後に三組に向かった。
ところが、朝の連絡を始めた時に、教室の後ろの入り口の方から声が響いた。
「ううう。あううう」
この声は、三組の児童の全員が聞き、皆が騒然となった。
この頃には庄司先生に起きたことが、児童に周知されるようになっていたのだ。
女子の一人が叫んだ。
「きゃあ。さっきのは小沢君の声じゃない?」
「こわい」「怖いよ」
児童が動揺しているので、小林先生は直ちにこの子たちを宥めることにした。
「大丈夫。気のせいですよ。何もありませんから、皆さんの考え過ぎです」
だが、けして「大丈夫」ではなかった。
小林先生は、念のため、声のした方に足を向けた。
この時、小林先生は子どもたちに向けるための「ほら、何もありませんよ」という言葉を心の中に用意していた。
小林先生が後ろの入り口の真ん前に立つと、正面に覗き窓があった。
そこはちょうど小沢君がぶらさがった高さだ。もちろん、この時には何ら異常が無かった。
小林先生は窓の前に立つと、一旦、視線を子どもたちに戻し、 「ほら、ここには何も」と言いつつ、視線を前に戻した。
思わず息が止まった。
小林先生は、縊死した小沢君の姿を、この時初めて目にした。
その窓の外には、目玉の飛び出た大柄な児童が立ち、教室の中を覗いていた。
何とも無残な姿だが、気の毒に思う以上に気色が悪い。小林先生は我を忘れて、「ああああああ」と叫んだ。
その声は、かつて庄司先生が発していたのとまったく同じ声音(こわね)だった。
この出来事が、理不尽な経過を辿るのは、果たしてこの先の展開だった。
庄司先生と同様に、小林先生も学校を休職し、静養することになった。
その後も、この学校では異変が相次いで起きた。子どもたちの耳には何も聞こえぬのだが、教師など大人の耳には、頻繁に「ぶつぶつ」と何事かを呟く声が聞こえた。
まるで隣の教室で誰かが話しているかのような、壁越しのくぐもった声だ。
主に三階の廊下で起きたから、学校は三組の教室を閉鎖し使わぬようにし、三組の児童は一階の音楽教室で授業を受けることになった。
そして、それに加えて、校長は休校日を見計らい、僧侶を招き供養を施した。
この小学校を舞台とする変事はそれで収束に向かった。
しかし、これは凶事自体が終わったことを意味するものではなかった。
一組の小林先生は庄司先生に続き、心療内科にひと月入院したが、結局は教師を辞めた。
現場の学校から遠ざかると、あの忌まわしい記憶が薄らいでゆく。
小林先生は自宅に戻り、外出が出来るようになったので、スーパーまで買い物に出かけた。
買い物を済ませ、スーパーの出口を出ると、その刹那、背筋にぞぞと悪寒が走った。
思わず振り返ると、入り口の自動ドアのガラスに外の景色が映っていた。
すると、小林先生のすぐ後ろに、そこには居ない筈の子どもが立っていた。
それは「両眼が飛び出て、舌が顎まで垂れ下がった子ども」だった。
これが小沢君であることに疑いはない。
小林先生は我を忘れて、「あああ。ああああ」と呻いて、その場に蹲った。
再び、小林先生は心の治療を受けるようになった。
当初は夫や子どもたちが妻であり母親を心配し、寄り添ってくれた。
だが、周囲の者には、小林先生が直面するものが、一切見えぬし聞こえなかった。
病状が長引くとともに、何時しか身内の者の心まで離れて行った。
結局、小林先生は家族の許を離れ、病院で暮らすことになった。
一年後、小林先生はベッドの縁のパイプにタオルを結び、それで自ら縊死した。
病院の医師は、小林先生の亡骸を見て、大きな疑念を抱いた。
タオルを頸に巻いた閉め方だから、首は確かに締まるが、それはぎりぎり死に至る程度の圧力の筈だった。
だが、その患者の両眼は眼窩から飛び出し、舌が顎の先まで垂れ下がっていた。
この出来事の怖ろしいところは、凶事が「起きる人にだけ起きた」ことだ。
二組は三組の隣の教室だったが、ここでは何も起きず、隣の教室での異変を誰一人感じることが無かった。小林先生が去った後、用教員が来るまでの間、一組は教頭が、そして三組は二組の仲飼先生が指導した。
仲飼先生が受け持った二組三組では、何ひとつ異変が起きなかった。これは教員も児童たちも同じだ。
元々、三組の担任だった庄司先生は、今も病院にいる。
はい、どんとはれ。