◎『怪談』 第五話 ほどヶ淵の河童 早坂ノボル
◎『怪談』 第五話 ほどヶ淵の河童 早坂ノボル
この夏、久々に郷里の岩手を訪れることになった。帰省はかれこれ七年ぶりだ。
私は長らく病床にあり、先祖の墓参りに行くこともままならぬ状態だったのだが、その間に母が亡くなった。
私は母が「いよいよ」となった時も病院のベッドにいたので、母の最期を看取ることも、葬式に出ることも出来なかった。
それから何年もの間、ただベッドの上で寝起きするだけの日々が続いた。その間、幾度か命に関わるような危機も経験したが、何とかそれを乗り越えることが出来、ついに半年前に退院出来たのだ。
その後も自宅で静養していたが、少しく体力が戻り、漸く郷里への旅に耐えられそうになったので、とりあえずは母の母参りに行くことにしたのだった。
墓所の近くには、昔住んでいた集落がある。
墓参を済ませ、車に乗ろうとしたが、ふと思い立って、この集落の様子を見て回ることにした。
私が小中高時代を過ごしたのはこの「馬場」と言う集落で、大学の半ばまで、父母と共にその家で暮らした。父母が転居した後、その家は倉庫になって今に至る。
当地には、墓参りに来たり、国道を通って、二戸や久慈方面に向かったりしたことはある。
だが、この生家の前に車から降り立つのは、およそ三十年ぶりだった。
この場所には沢山の思い出がある。
生家を眺めた後、私は国道に出て、北に百数十㍍ほど歩いた。ここは軒数十軒ほどの小さい集落だから、すぐに家並みが途切れ、その先は下り坂が待っている。南北にかけて段差があるわけだ。高低差は二十㍍ほどで、それほどでもないが、これは戦後に国道を改修する際に斜面を掘り下げたことによる。
藩政期時代には、奥州道中でも有数の急坂のひとつだった。
この坂は「甚平衛坂」と言う名で、昔通った小学校はその坂を降りた北側にあったから、子どもの頃は幾度もこの坂を上り下りした。
さて、この坂にはこんな由来がある。
まだ盛岡藩の統治が行われていた頃、この集落は「馬場街」と呼ばれていた。この集落は姫神山に向かう西の入り口(分岐点)にあったので、交通の要所でもあったのだ。
「馬場」と言う名が示すように、「馬替え所」の機能を果たしていたわけだ。
そこで、奥州道中を行き来する旅人のために、この地に住む甚平衛が坂の上に茶店を開いた。なお当時の名は「馬場坂」だった。
とりわけ、北から南に向かう旅人たちは、急な坂を上るから、そこで一服したくなる。
甚平衛はそれを当て込んで商売を始めた。
その当時は坂のすぐ裏手の崖下には、北上川の流れが寄せており、崖の下で渦を巻いていた。
ある大雨の日に、甚平衛は坂裏の崖の上に立ち、川の様子を見ていたが、何の拍子か崖から落ちてしまい、川の中に姿を消した。
それ以来、この坂のことを「甚平衛坂」と呼ぶようになった。
小学生が学ぶのは、こんな由来だが、実際に起きたことは少し違うようだ。郷土誌を調べると、少し違ったことが記されている。
そちらではこう記されている。
藩政期に、甚平衛と言う者が「馬場坂」の上に茶店を構えていた。
とりわけ北から南に向かう旅人は、急坂を上る必要があったから、坂の上の茶店で一服したくなる。このため、甚平衛の茶店はたいそう繁盛した。
ある時、甚平衛の店に押し込み(強盗)が入り、甚平衛を殺し金品を奪った。盗人は甚平衛の遺骸を崖の上から北上川に放り捨てた。
この出来事がきっかけで、従来、「馬場坂」と呼ばれていたこの坂が「甚平衛が殺された坂」、「甚平衛坂」と呼ばれるようになった。
どうやらこれが実際に起きた話らしい。
川の蛇行は時の流れと共にその位置を変える。
私がこの地で暮らしていた頃には、北上川の流れは大きく経路を変え、既に甚平衛坂の近くには無かった。
崖の下は川岸の草叢だったが、さすがに藩政期からもはや百五十年以上経っている。景色が変わるのもごく当たり前だった。
さて、懐かしさのあまり、私は甚平衛坂の土手の上に昇ってみた。
そこには、幾らかの畑と雑草の草叢がある。
かつては、草叢の隅に家の礎石のような大きな石が転がっていたのだが、今回は見つからなかった。
他家の私有地だけに、遠慮しいしいだが、ここで私は高所の上に立ち周囲の景色を一望してみた。
この坂には様々な思い出がある。
この坂の反対側には屋号を「松の下」という家があるのだが、これはこの道が奥州道中として知られていた頃に、道に沿って松の高木が並んでいたことによる。
戦後に国道を整備した時に、坂を削りなだらかにした。その時に松の並木も大半が切られ、殆ど残されなかったようだ。
「松の下」には同級生がいたが、この同級生の名前はケンゾーと言う。小学生の時には、よくこのケンゾーと山歩きをした。
ケンゾーはまさしく「野人」そのもので、山のことにはやたら詳しかった。
深い山に入る時もコイツが居れば大丈夫。
このケンゾーには忘れ難い思い出がある。
小四か五の夏のことだ。
ケンゾーと二人で山中に分け入ったが、私には行程がまるで分からぬから、ただケンゾーの後をついて行った。
すると、沢を越えようとしたところで、急にケンゾーが立ち止まった。
前を見ると、二㍍を超えそうな長さの蛇がとぐろを巻いていた。
ケンゾーは一瞬立ち止まったが、すぐさま手に持っていた杖を振るい、その蛇の頭を鋭く打った。
蛇がぐったりすると、すかさずケンゾーはポケットから小刀を取り出し、蛇の頭付近に突き刺すと、くるくるとその蛇の皮を剥いだ。
私は呆気にとられるばかりだったが、ケンゾーがその皮を背嚢に仕舞ったところで気を取り直し、ヤツに訊いた。
「そいづは何蛇なの?」
するとケンゾーは事も無げに、ひと言「糞蛇」と答えた。
「糞蛇」とは蝮のことだ。
私は少なからず仰天した。
子どもの背丈よりも長い蝮を目の前にして、ケンゾー少年はあっという間にそれを退治して見せたのだ。
常日頃、親族より「蝮は相手を敵と見なすと、三㍍も飛び跳ねて襲って来るから、近寄ってはいけない」と教えられていたから、なおさらケンゾーの振る舞いに驚かされた。
「まるで昨日のことのようだが、それももはや何十年も前のことになるわけだな」
だが、子ども時代ははるか昔のことなのに、その思い出の地に立ってみると、様々な記憶が事細かに蘇った。
そこで、私は北上川まで降りてみることにした。
甚平衛坂を北に下ると、左手には田畑が広がっている。その脇に草叢があり、その茂みの先に川原との境目になる土手が落ち込んでいる。高低差はほぼ二㍍だ。
「昔はこの草叢の間に、釣り人が歩く細道があったはずだが・・・」
これがなかなか見つからない。
この地にもはや小学生がほとんどおらず、住人も高齢化している。北上川に釣りに出る人がほぼいないのだった。
ようやく川原に降りられる細道を見付けたが、殆ど狐や狸の通る「けものみち」のような按配だった。
しかし川原に立ってみると、、この川は昔と同じ佇まいをしていた。
水面を眺めているうちに、ケンゾーの声が蘇った。
「今は鮎が何匹も釣れんぞ。行くべ」
あれは忘れもしない、小五の八月のことだった。
私とケンゾーはこの同じ川原で探索をしていた。川には色んなものが流れて来るから、それを検分するのが目的だった。
もっとも多いのは空き瓶の類だ。瓶種と状態によっては店で引き取ってくれるので、これを拾い集めると子どもの小遣いになる。
また、どういうわけか、まだ新しい人参や西瓜が流れて来ることもあった。段ボールごとの時もあるのだが、これが謎だった。
今考えると、きっと余り物で廃棄処分になるものだったのだろう。捨てるのが面倒なので、きっとそのまま川に流した。市場の売れ残りは、その日のうちに廃棄処分になる。
産業廃棄物は、捨てるのにも金が掛かるのだ。
また、上流から流れて来た木箱から何やら声がするので、これを引き寄せると、中に子猫がいたこともあった。沢山生まれてしまい、処置に困った飼い主が「川に流し」てしまったのだ。
あまりにも可哀想なので、岸に上げて放したのだが、きっと数日も生きられなかっただろうと思う。
ここでかつての記憶が閃く。
「そう言えば、この先に『ほど』があったな」
川筋の曲がったところに多く淀みが出来るが、この近くには『ほどヶ淵』と呼ばれる淀みがあったのだ。
昔を思い出し、私はさらに上流に進んでみることにした。幸い、土手を上がると田圃のが脇に農道が付いていた。
しかし、百㍍ほど進むとその農道が途切れ、再び草叢となったので、そこで土手を降りた。
高低差は僅か二㍍ほどだからさしたる労力は必要ない。
「どこかに石塔がある筈だが」
子どもの頃にこの辺を歩いたが、土手の中ほどに石が立ててある場所があった。
人為的なもので、明らかに人が置いた石だ。
「祠」と言うほどではないが、石の前に小さな賽銭箱が置いてあった。
当時は地蔵さまの代わりか、甲申供養塔のようなものかと思っていた。
その石にも思い出がある。
やはりケンゾーと二人で北上川に探索に出た日のことだが、ちょうどその石の近くで休んでいた。
すると、突然、背後で声が響いた。
「ジャジャジャアン。俺だぞ。俺が来たぞ」
振り向くと、同じ小学校のタカオが立っていた。子分のシゲルも一緒だった。
タカオは所謂「悪ガキ」の大将で、皆から嫌われていた。下級生を苛めるし、悪さもする。畑の西瓜をかっぱらうのも平気だった。
このタカオは、いつも漫画かアニメのキャラのするような現れ方をした。
タカオは悪ガキなのだが、私やケンゾーは同級生で、さらに別の組だったせいか、私たちに対して悪さを仕掛けなかった。
タカオの頭の中では、私やケンゾーは「仲間」だったようだ。
このタカオが現れる時には、必ず自分で「ジャジャジャアン」と登場曲を言い放った。
これがタカオの口癖だった。
「何だ。今日は釣り道具を持って来てねのが。持って来ればいいのに。一緒に『ほど』で釣りをすべ」
だが、当時は『ほど』では釣りをしてはならないことになっていた。
「そりゃダメだべ。『ほど』には河童が出るもの」
当時、その淵には「河童が出て、人を水中に引きずり込むから、そこで釣りをしてはならない」と言われていたのだ。
すると、タカオはからからと声を上げて笑った。
「なあんだ。おめらはそれを本気にしてだのか。そんなのは迷信だべさ」
これにシゲルが口調を合わせる。
「この辺で河童が出る話は幾つもあるべさ。でも、実際に見た人はいね。全部作り話だべ」
この付近で「河童が出る」という言い伝えがある場所は二か所あったが、ひとつが北上川の『ほど』で、もう一つが山中にある沼の『しんか』だった。
『しんか』はケンゾーの家の前の道をずっと先に進み、山の中に分け入ったところにある沼だった。
もう一か所が北上川の『ほど』だ。
私は祖父から、その両方での釣りを禁じられていた。祖父は釣り名人として近隣で知られていたから、もしかするとその禁則の出所自体が祖父だったかもしれぬ。
「だけんど、本当に溺れて死んだ人がいるでねえか。『しんか』では高橋のオヤジさんが溺れ死んだぞ。『ほど』でも田上の婆さんが落ちて死んでるし、一年下の道弘も溺れて死んだべ」
「ばあか言ってろ。おめは本当に根性なしだな。おらたちは今も釣って来たどこだ。ほれ」
タカオが自分の下げた魚籠を傾け、中身を見せた。
その中には二十㌢はあろうかという鮎が、ざっと十五匹も入っていた。
「今は鮎釣りに一番良い時だ。山ほど釣り人が出てっから、早く釣らねばいねぐなってしまうぞ。ま、その点『ほど』には釣り人が来ねがら、ほれ、獲りたい放題だ」
ここでケンゾーが口を開く。
「河童は出ねえのが?」
「出るわけねえべ。ただの迷信ださ。じゃあ、明日な。朝の九時にここに集合だぞ。必ず来いよ」
こちらが返事をする前に、タカオはくるりと背中を向けた。
だが、石塔の脇を通り掛けに、賽銭箱を覗くと、すぐにそれを引っ繰り返した。
「なあんだ。たった百五十円だ。今月は人が来ながったな」
タカオはその小銭をポケットに仕舞い込むと、シゲルを従えて、農道を遠ざかった。
その二人の背中を見ながら、「さすがに賽銭をかっぱらうのは不味いだろ」と思った。
ケンゾーも同じことを思ったのか、「あいつら。何時か罰が当たるかもしんねえな」と呟いた。
その後のことは数十年経った今でも、鮮明に憶えていた。
「確か『ほど』はあの石塔から百五十㍍くらい北だったな」
昔は石塔のすぐ前に『ほど』があったのだろうが、その淵は上流に位置を移していたのだ。
「ま、あの石塔を見付けられれば、『ほど』もそんなに遠くはない」
私はしばらく土手の上を歩き、石塔を探すことにした。
だが、その石塔がどうしても見付からない。
石が三四個も散らばった場所はあったが、中央にあるべき高さ五十㌢ほどの柱石が見当たらなかった。
「もしかすると、タカオのような悪ガキが石塔を倒してしまったかもしれん」
あの党を前に転がせば、土手の上から一気に下まで落ちてしまうのだ。
石塔は見付からなかったが、しかし、『ほど』らしき淵は見付かった。
やはりかつての場所とは違う場所で、今度は下流に位置を移していた。
「あの時とは違うが、ここがたぶん『ほど』だ」
私は『ほどヶ淵』の前の川原に座り、暫くの間、水面を眺めた。
「あれから何十年も経ったな。俺も随分とこの地から遠ざかったもんだ」
長い間忘れていたが、あの時の出来事はまるで昨日起きたことのように思い出される。
あの日の夜。私は家で釣り道具の支度をしていた。翌朝、ケンゾーやタカオと一緒に『ほど』に鮎を釣りに行くためだ。
竹棹を用意していると、それを祖父が見た。
祖父は所謂「釣りキチ」で、父の店が軌道に乗り始めてからは働くことを止め、毎日釣りばかりしていた。
その時、祖父は私に尋ねた。
「で、何処さいぐつもりだ?」
「北上川」
「沢目川に岩魚を釣りに行ぐわげでねのが。その棹はそれ用だぞ。何を釣るつもりだ」
「鮎を釣る」
すると、祖父は「それならこっちを使え」と、自分用の竿を渡して来た。
この時、祖父には何か直感が働いたらしい。
「おめ。まさが、『ほど』に行ぐつもりじゃねべな」
「あ」と私の息が止まる。
すると、その様子を見て、祖父はこんな話をした。
『ほど』の名前の由来は「乞食(ほいど)」から来ている。「ほいど」が訛って「ほど」になったのだ。
何故そう呼ばれるようになったのか。
それは甚平衛坂の由来とも関係している。
甚平衛が強盗の手にかかり、北上川に捨てられた後、暫くして、一人の盗人が捕まった。
托鉢に来た山伏が空腹の余り、民家に忍び入って食い物を盗んだのだ。
姫神山は奥州でも有名な山岳信仰の一大拠点で、藩政期には何百人もが山の麓で修行をしていた。人数が多いだけに、修行の道を踏み外し、乞食や盗人に転じる者もいたのだ。
山伏は米をむさぼり食っていたが、たまたまその家の百姓が家に戻って来た。百姓は容易に痩せこけた山伏を捕らえ、簀巻きにして北上川に放り込んだ。つい最近、甚平衛が強盗に殺されたばかりだったので、その恨みもあったのだ。
山伏は澱みの淵に投げ込まれると、そこで溺れ死んだ。
ところが、それから程なくして異変が起き始めた。
川に仕掛けた魚取りの簗が壊され、それを直しに行った百姓が溺れ死んだ。
これが始まりで、その後も淵で足を取られる者が相次いだ。そして、幾人もが土左衛門となり淀みに浮かんだのだ。
村人たちはそこで祟りの所在に気が付いた。
「盗人に落ちた者とはいえ、川に放り込んだ相手は山伏だった。恐らくその山伏が殺された恨みから河童となり、近づく者を引きずり込んでいるのだ」
そこで村人は山伏の怒りを鎮めるために、供養塔を立て、山伏やそこで溺れ死んだ者たちを手厚く弔うことにしたのだった。
その出来事から優に百年以上が経っているのだが、「ほど」ではいまだに時々、溺死者が浮かぶ。上流で流された者も、この淵に流れ着くとそこに留まり、ようやく発見されるのだ。
祖父に言われ、ここで私は気が付いた。
「あの石塔はやはり供養塔だったのだ」
もしそんなものを蔑(ないがし)ろにしたら、後でどんな祟りがあるか分からない。扱い方には十分に気を付けねばならない。
「祖父(おんず)さん。分ったよ。俺はほどには行かねがら、心配してくれんでもええ」
祖父はもう一度念を押した。
「絶対(ぜって)、あそごで釣りなんかするなよ」
私は祖父に、もう一度、「ほどには行かね」と約束した。
翌日は夏休みの最後の日だった。
私は一人であの供養塔のところに向かった。
供養塔の前に立っていると、程なくケンゾーもやって来た。
ケンゾーは釣り道具を持っていなかった。
ケンゾーにも昨夜の私を同じことが起きたのだ。
「ケンゾー。お前(め)も親に怒(おご)られたか」
ケンゾーが力なく頷く。
「ああ。ほどには行ぐなと、えれえ怒られた」
「はは。やっぱりだな」
十数分後に、タカオとシゲルがやって来た。
二人とも、鮎を釣る「がらがけ」用の仕掛けを持参している。
私たちの傍に来ると、タカオがいつも通りの口上を言った。
「じゃじゃじゃあん。俺さまが来たぞ」
だが、すぐにタカオは私とケンゾーが手ぶらで来ていることに気が付いた。
「何だ、お前(め)ら。竿を持って来ねのが」
これには私が答えた。
「ああ。祖父(おんず)さんにキツぐ言われたもの。ほどで釣りをしちゃならねって」
この言葉を言い終わる前に、タカオが強い口調で言った。
「そんなのは迷信だったら。現に俺(おら)たちは昨日もあそごで鮎を獲ったもの。行かねなら、お前らは余程の根性無しってごとになるべ」
「いや、言いつけを守らねば、今度はどれくれどやされるか分からね。俺とケンゾーはほどには行がねことにしたがらな」
私がきっぱりと断ったので、タカオはここで誘うのを諦めた。
「そが。だばシゲルと行ぐ。後で来ても、鮎は分けてやらねがらな」
そう言うと、タカオはシゲルを促し、踵を返して『ほど』に向かおうとした。
だが、数歩歩くと、タカオはそこで足を止め、供養塔の前で立ち止まった。
タカオは腰を屈め、賽銭箱を持ち上げ、これを逆さまにして左右に振った。
箱から数枚の硬貨が土の上に転がり落ちる。
タカオはそれを拾い集め、つまらなそうに言った。
「何だ。百五十円ぽっちだったが。今月は釣り人があまり来ねがったな」
さすがに私もこれには呆れた。
「おい、タカオ。そんなごとをやれば、罰が当たるぞ。そいづは土左衛門をご供養するためのもんだべ」
すると、タカオは私の言い方が癇に障ったのか、大声で言い返した。
「はああ?そんなのは迷信だああ」
タカオは気性が荒い。
叫ぶだけでは気が済まなかったのか、右足を上げて供養塔を蹴り倒した。供養塔が後ろにごろりと音を立てて転がる。
高さが五十㌢にも満たぬ供養塔だが、石づくりだから見た目よりも重い。
タカオは石の柱を推した拍子にバランスを崩し、その場の斜面に尻餅を着いた。
だが、すぐに起き上がると、私を睨み付け、シゲルを促して川の上流に歩み去った。
二人が去った後、私とケンゾーは一緒に供養塔を元の位置に戻した。
ケンゾーが呟く。
「こんなごとをして、タカオには罰があたらねがな」
「がも知れねな」
私とケンゾーは、供養塔の前で手を合わせると、それぞれの家に帰った。
翌日は登校日で、私はひと月ぶりに学校に行った。
この日はほとんど挨拶だけで、教師に宿題を届けると、それで授業が終わりになる。
帰り仕度をしていると、隣のクラスのヨシコがやって来た。ヨシコは隣家に住む同級生だ。隣家との間には畑があり、五十㍍は離れていたのだが、それでもやはり幼馴染の一人で気兼ね要らぬ話が出来た。
この女子とは小中を通じ同じ学校に通ったが、どういうわけか一度も同じクラスになったことがない。
「ねえ、聞いた聞いた?」
「何を?」
ヨシコは大慌てで話し出した。
「こっちの組のタカオ君が死んじゃったんだってさ」
思わず息が止まる。タカオには昨日会ったばかりだった。
「本当なのかよ」
「川で溺れちゃったんだって。シゲル君と一緒に釣りをしていたらしいけれど、タカオ君が急にいなくなったんだってさ。シゲル君は慌てて家の人を呼びに行ったけど、タカオ君はもう沈んでたらしいよ」
「『ほど』でが?」
「あら、ケンイチ君は知ってたの?」
ここにケンゾーが青い顔でやって来た。
「おい。もう聞いたっか?タカオが・・・」
私はケンゾーに頷いた。
「ああ。今ここで聞いた」
「それじゃあ、まさがあの後で・・・」と言い掛けて、ケンゾーが黙りこくる。
絵に描いたような展開だった。まさに巷で言う怪談に出て来るような成り行きだった。
タカオは供養塔を蹴り倒して、『ほど』に釣りに行き、そこで「河童に引かれた」のだった。
何十年も前の子ども時分に起きた出来事だが、それは現実に起きたことだった。
鮎釣りの時には、釣り人が渓流に足を踏み入れてするのが常道だ。タカオもきっと「ほど」に足を踏み入れた。
曰くのある場所で、障りを呼ぶような振る舞いをして、、タカオは言い伝えの通りに流されてしまったのだ。
「あの時に、俺たちがもっと必死になりタカオを止めていれば、あいつは助かったがな?」
だが、私は自分で首を振っていた。
「タカオの性格からして、絶対に釣りを止めたりはしなかったべ。タカオが死んだのは、半分以上はあいつの気性による」
これが小学生の私の『ほど』の記憶だった。
ここで、私は周囲の土手の上にある筈の供養塔を探した。
「必ずこの近くにある筈だ」
土手の上の数十メートルの範囲をくまなく探したが、しかし、供養塔のあった痕跡は見付からなかった。
「あれから四十年も経っている。河童の言い伝えが子や孫に継承されることなく絶えたのだな」
私の子ども時分にも、「ほど」の話を知っているのは、明治生まれの祖父の世代の中でも幾人かしかいなかった筈だ。
今、年寄りがそんな昔語りをするような寄合は、田舎でも行われなくなっている。
文字に残らぬ言い伝えは、いずれは消滅して行く運命なのだ。
そのまま私は川の上流に向かって土手を歩いた。
二百㍍ほど進むと、土手の斜面の下に標識のような杭が打ってあった。
その古ぼけた木の杭には「ほぞ」という地名が小さく記してあった。
「昭和の末から平成にかけて、『地方史再発見』のブームがあったが、きっとこの杭はその頃に打たれたものだな」
だが、ここが「ほぞ(臍)」ではなく「ほど(乞食)」だということは分からなかったらしい。音の印象だけを憶えている者が、これを伝えたのだ。
「当て字の誤りなのだが、『臍』とは言い得て妙だ。『臍を噛む』とは『悔やむ』という意味だ。若かりし頃を思い出し、幾ら悔やんでも、もはや取り返しがつかない。残るのは「悔い」だけだからな」
この地に残るのも、表記を誤った「杭(悔い)」だけになっている。
思わぬ駄洒落が成立したので、苦笑いを漏らしつつ、私はさらに川の上流に進んだ。
この地にあった、本物の『ほど』を探し出さずにはどうしても気が済まなかったのだ。
そして、二百㍍ほど歩くと、ようやくそこに川の水が澱んだ箇所があった。
両岸の灌木が川面に垂れ下がっており、土手から見ると、水面がすぐ下にあるように見える。
流れの本筋は向こう岸寄りで、こちら側の縦横二三十㍍の水面は至って平滑だった。
木々に囲まれていたから手前にある川原が見えず、この淀みだけが見えるのだが、水面の外側は際立って薄暗かった。
「たぶん、ここが今の『ほど』だ。あの頃より随分と小さくなったものだな」
私は四十年ぶりにここに戻って来た。
土手を下り川岸の岩に腰を下ろし、私は水面に映る景色を眺めた。
ケンゾーやタカオの声が蘇る。あの頃の子どもたちは、もはや今はいない。
ケンゾーも今は行方知れずだ。
それどころか、この地には子ども自体が殆どいなくなっている筈だ。
最寄りの小学校の児童数は、もはや十数人にまで減ったらしい。
景色はさほど変わらぬように見えるが、この地に関わるひとの状況は大きく変わった。
「ここだけはあの頃と何も変わらない。『ほど』は、何時しか場所を替えたが、昔の通りにここにある」
そしてそれはこの後も続く。
ひとがどんなに移り変わり、伝説が失われても、『ほど』は『ほど』のままでこの地にあり続ける。
同じ場所に留まり、小一時間も水面を見ていただろうか。
次第に日が翳って来た。
私は漸く腰を上げ、帰路に着くことにした。
そして、私は川に背中を向け、土手を駆け上がった。
ところが、甚平衛坂の方角に歩き始めたが、その数秒後に異変が起きた。
唐突に私の背後で声が響いたのだ。
「ジャジャジャアアン」
思わず足が止まった。
「あの声は・・・」
タカオが口ずさんでいた口真似の登場曲だった。
急いで背後を振り返る。
それと同時に「ちゃぷん」という音がして、『ほど』の水面に同心円状の波が広がった。
息を止めて水面を見詰めたが、程無く波紋が静まり、元の平滑な状態に戻った。
「タカオ。お前(め)は河童になっていたのか」
あの日、北上川の『ほど』で溺れ死んで、きっとタカオ自身が河童になったのだ。
土手の上を戻りながら、私はひとつの決意をしていた。
「よし。もう一度ここに供養塔を立て、タカオやここで溺れた者の魂を慰めてやろう」
そして、それはこの地に生きた名も無い者たちの記憶を長く留めるという意味を持つのだ。
郷土にはその土地その土地なりの言い伝えがある。それらは先人が経験を通じて得た教訓や戒めを語り継ぐものだ。
そこに住む人々と暮らしはどんどん移り変わるから、口碑ではいずれ途絶えてしまう。
それなら、言い伝えを文字に残すことで、昔の人の「こころ」を受け継ぐことが出来るかもしれぬ。
語り継ぎ、思い出すこと自体が、ここで亡くなった者たちの供養になる。
甚平衛坂を上り始める私の足は、心なしかここに来る前より軽くなっていた。
はい、どんとはれ。
◆注記
文中の固有名詞は創作上のもので、現実のそれとは一切関わりありません。
すでに見直す余力がなく、眼疾で文字が見えませんので、手控えのままとなります。
◆後記
小学生の頃、北上川に「ここに入ってはいけない」と大人に言われていた場所があったが、隣のクラスの生徒が入り、そこで溺れた。
つい前の日にもその男児と話をしたばかりだったが、急にその子がいなくなり、同級生は皆ショックを受けた。
どういうわけか、その同じ場所で、釣り人や、通り縋りの農家の人が溺れる事例が続き、「河童が川の傍に居る者を引きずり込む」という噂が立った。
祖父は釣り好きで、毎日のように川に出掛けていたが、やはりこういった危険な場所には一切近づかぬようにしていた。
「河童が出るからな」
だが、四五十年の月日が経つと、何時しかそんな出来事の記憶が薄れ、河童の噂も消えて行った。
おそらく今では、甚平衛坂の由来や北上川に河童が出た話は、地元の人でも知らぬと思う。