◎病棟日誌R070802「清め塩」
◎病棟日誌R070802「清め塩」
朝、治療が始まる前に、Aさんのところに行った。
Aさんはもはや「人造人間」で体内の主要な血管がパイプに取り換えられている。
「Aさん、今、体調がかなり悪いでしょ」
「そうなんです」
「やっぱりね。それなら、玄関の扉を開けた時に、左側の隅に五センチくらいのスペースがあるから、そこに小皿に粗塩を盛っておいておくといいよ。扉を開けて家に入る時に、足を踏み入れる前に、あおの塩を取って肩や背中を清める。それを毎日繰り返しているうちに少し楽になる」
唐突に言われれば面食らうだろうから、説明が必要だな。
「こないだ、Aさんの後ろに『黒いひと』がいるのを見たから、コイツを遠ざける必要があるんだよ。まずは毎日、家に入る時にはそれをやってみて」
すると、Aさんは納得したように頷いた。
こちらが説明なく「黒いひと」と言ったので伝わるかどうか不安だったが、すぐに合点が行ったらしい。
「私、前にも別のひとに同じことを言われたことがあるんです。すぐにやります」
「毎日続けてみて、変化が無いようなら、また手立てを考えます」
しかしいきなりこんなことを言われたら、不快感が先に立つかもしれん。
「心配しなくてもいいんだよ。俺はAさんよりも先に死ぬことになっている。逆に言えば、俺が生きているうちはAさんがくたばることはないんだよ」
昨年、Aさんは大動脈を取り換えるバイパス手術を受けたが、既に複数回に及んでいるので、自分の血管が使えずに人工血管になった。「もう次は出来ない」と言われたらしい。
半年以上入院して、戻って来た時にはやはりゾンビ状態だった。
だが、私は何となく「この人は俺より長く生きるだろうな」という確信があったので、そのことを繰り返し伝えて励ました。
「Aさんはまだくたばる運命じゃないから大丈夫だよ」
この「大丈夫」ってのは魔法の言葉だ。元気が出る。
少し嘘を吐いたが、この場合は致し方あるまい。
こういうのは占い師や祈祷師とは逆の対応だ。職業「霊能関係者」は、大体が客の不安をあおるようなことを言う。
「このままだと大変なことになりますよ」
お前に関ること自体が「大変なこと」だっつうの。
私の前で言ってみろ。その場でそいつを撮影する。
で、そこにはデロデロと性質の悪いのが顔を出す。
この会話を、やはり看護師が聞いていて、ベッドであれこれ聞かれた。「さっきのは・・・」。
面倒なので、そのまま答えた。
私はたぶん、今のままなら、九月十七日頃に命日を迎える。
手立てを打っているが、まだこれと言って効果がある感じではない。
逆算すると、八月末から九月頭に入院して、大体二週間で去る。これはこの病棟の患者の平均的な末路だ。
「だから、状況が変わるまでは新しい治療はしません」
右足がいよいよ腐りそうになって来て、切断時期が見通せるようになって来た。それを遅らせるため新しい治療を勧められていたが、現状では効果はない。病気でそうなっているわけではないからだ。実際、数値は右足よりも左足の方が悪いのに、右足が吸う伝先に進んでいる。
Aさんに言ったことの「半分は嘘」だというのは、過去にもお迎えが着たり、稲荷の眷属に祟られたりと、自分の死期を間近に見たことがあることだ。
過去には、その都度打開策を発見出来た。「私が先」ではないかもしれないが、あやふやだ。
あとひと月のうちに模索して、方法を探し当てられれば、幾らか死期を先延ばしに出来るかもしれん。
でもま、誰にでも寿命はある。衰え、滅びぬ者はいない。
追記)私にあれこれと語る幽霊がいることを話し、「家の中でそいつを撮影した」と言うと、看護師はかなり退いていた。「回線が繋がっていない受話器が鳴ったり、電源の入っていないフードプロセッサーが動く」段になると、恐れの表情が見える。
誰か知らぬ人の語る怪談話ではなく、目の前にいる者の体験談だから当たり前だ。
「もう話したから、何か知りたいことがあるなら、今訊いてくれればわかる範囲で答えるけど」と言うと、「いやいや結構です」とマジ退きしていた。
同じ質問を時々するが、一人も応じる者はいない。
不吉な出来事の方が鮮明に分かるから、知らぬ方が幸せに生きられる。