日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎叔母のタフな精神力、からの

叔母のタフな精神力、からの
 義叔母は八十台だが、ステージ4の癌患者だ。
 最初は乳癌だったと思うが、そこから確か胃に転移して、これを切除。最近では皮膚癌が出来て、これを切除した。
 その都度、淡々と癌を切除している。
 時々、電話をするが、こちらの健康状態を心配される始末だ。
 ま、明日をもしれぬのはお互い様だ。

 叔母の家の隣の小父さんが腎不全患者だったとかで、その人の様子を見ていた。足を切断し、松葉杖生活になったそうだが、足を切る状態だと、体の他の箇所も傷んでいるので、半年持たないそうだ。
 ま、病棟で見ているので、そのことは承知している。

 「くよくよと暗い気持ちで日々を過ごすより、楽しいことを考えて暮らす方がよい」
 いつも双方が同じことを言って、会話が終わる。
 この叔母は、一度も痛いとか苦しいとかを口にしたことはない。
 自分とはタイプ(性格)が違うのだと痛感する。
 当方はそのまんま「痛い」「苦しい」を口に出して言う。
 もちろん、それで少しスッとするので、悲観的になるわけではない。喜ぼうが悲しもうがなるようになるだけだ。
 ま、愚痴をこぼすような病人が叔母の周囲にはいないことももあるとは思う。
 直観も働く方で、当方の具合が悪いと、すぐにそれを察知して、果物とか蕎麦を送って来る。キツイ時には電話で対応するのも難しいことを知っているので、それがサインになっている。

 

重篤な患者の心神耗弱

 病状が進むと、心神耗弱状態に陥って来る。

 さらに進むと、幻覚や幻聴を覚えるようになる。

 当方は毎日、午前二時四十五分に目覚めるのだが、夢を中断して物音が聞こえる。

「玄関のチャイム」

 誰かが訪問する時刻ではないので、幻聴だと思うが、鮮明に聞こえる。睡眠中だから、つい「宅配便だ」と錯覚し、インタフォンに返事をするが、もちろん、返事はない。

「『起きなさい』とゆすり起こされる」

 今すぐに起きて、と揺さぶられて目が覚めるが、傍には誰もいない。概ねその後で心房細動が起きるので、それと関係している。

 こういうのは、脳が作り出したものだと自己診断出来るのだが、当方の場合、病状が比較的楽な時でも、「お知らせ」みたいなのはあるから、判別が難しい。

 道で「黒いひと」を見掛けることが増えたのも、体が弱っていることと無縁ではないと思うが、それがただの幻視なのか、実際にそこにいるのかが区別できない。

 最近は慣れてきて、違和感を覚える時には、すぐにスマホやカメラで撮影するが、そこには出来ない筈の影が出来るから、何とも言えない。

 背中や腕に手を添えられた時などは、鮮明に分かるが、視覚や聴覚よりも触覚の方が正確だと思う。

 ある程度区別がつくうちはまだよいが、いよいよ感覚が冒されてきて、現実と妄想の境目がなくなったら、さぞ生き難いだろうと思う。

 死ぬと合理的論理的にものを考えるため必要な脳を失うから、感情で外界を受け止めるようになる。生前は妄想だったものが、死者にとっては現実として現れる。

 いわば、外界が「主観的に構成される」こととなり、各々が自分の世界の中で暮らすことになるようだ。

 徐々にその状態に近づいて行くということは、とりもなおさず、自分がそっちの世界に入りつつあるということの証左だろうと思う。

 感情はコントロールが利かない。

 生きている間は、肉体と脳が働くから暴走を止められるが、感情だけの存在になったら、執着心を持つ対象にじっとしがみ付くだろうと思う。

 肉体が滅んだら、それと同時に、自我を消却する必要があるが、これをスムーズに行うためには、常日頃から穏やかな心持を保つ練習が必要なようだ。

 叔母は死を目前にして、心中には葛藤がある筈だが、話をすると常に穏やかで前向きだ。

 今年は従弟が急死したりしたから、心中はその悲しみも抱えていると思うが、表には出さない。

 胆力みたいな感覚には学ぶべきものが多い。

 

◎深夜の訪問者

 晩年の母は、午前二時になると、必ず起きだして息子(当方)の顔を見に来た。
 病気がちでもあり、当初は「トイレに行きたくなるのか」とも思っていたが、どうやら様子が違う。
 八十歳頃からは夜に一人で過ごすのを極端に嫌うようになった。親族を頼んでわざわざ来てもらうほどだ。
 それが「午前二時に必ず枕元に誰かが立つ」からだと分かったのは、当方自身がその誰かの足音を聞いたからだった。
 当方は母を支えるために、頻繁に郷里に滞在したが、夜中には原稿を書いていた。
 深夜に玄関の外で足音が響くのは早々に気付いていたが、実家は店舗の傍でもあり、夜中でも人通りがあるから気に留めなかった。
 だが、家の中でもはっきりした足音が響く。
 後で分かったが、これも「お迎え」の一種で、「お迎え」には何段階かレベルがある。
 当方はあの世関係が割と平気なので、変なことが起きてもあまり動じないが、母の側からもその様子が見えたので、母は当方の顔を見に来たのだろうと思う。顔を一瞥すると、母は安心したような表情を見せた。

 母に起きていたことは、今は実感として分かる。
 身体の機能が低下しているから、妄想や幻視・幻聴がやたら増えるが、実際にそこにいるのか、ただの妄想なのかの境目がないのだった。
 当たり前だが、総てが妄想や空想の産物ではないことも事実だ。
 自分の見たいものだけを見るのは科学的な姿勢とは言えないが、経験論を標榜する者も同じ罠に嵌っていることが多い。似非科学で根拠をこじつける。
 この世にもあの世にも、説明出来ないことはある。
 説明出来ないことについては「現状ではよく分からない」と見なすのが科学的思考だ。

 

注記)SNSの書きなぐりを転記したもの。眼疾があり文字がよく見えないので遂行も校正もしない。誤変換は多々あると思う。