日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

あんたのファン

先日、ある本の編集に携わることになり、打ち合わせ会議に出ました。
ふだんの仕事とも、また時折書き散らしている散文の類にも関係の無い、郷土史に関連した本です。

会議がひととおり済んだ頃、近況に関する雑談になりました。
「最近はどんなのを書いてるんですか」
これは筆名を知っている旧知の知人です。
「新聞の連載だと戦国の話で、豊臣秀吉というバケモノと戦おうとする侍たちの話です。他に秋までには三陸津波の話をまとめるつもりですけど」
ここに別の人が口を挟みます。この人はこの会議で初めて会った70歳代の人でした。
「え?小説も書いてるの。なんていう人なの」
自分で自分を語るのは気が引けますが、ここは別の人が説明してくれました。
「あんたが早坂ノボルさんだったのか。わたしはあんたのファンなんだよ」と、先のご老人。
「あの話はよかったね。叔父さんの話」と、その人が始め、実に詳細に「ごんぼほり」の内容について聞かれました。

一人称の魔術ですね。
「ごんぼほり」の時には、悩みに悩んだ末、文体を「わたし」で始まる一人称にしました。
こうすると、本にした時には絶対に売れなくなります。
なぜなら、当事者として感情移入できない第三者には、面白くなくなるから。
簡単に言うと、思い入れのない人には、実にヘタクソに読めます。これは、話に共感できないので当たり前ではあります。
ところが、自らに思い当たる体験や共感できる心情に触れると、思い切り心が揺さぶられるのも、一人称のもつ特徴です。
マイナーな素材だったので、共感可能な人は100人に1人か2人くらいだろうなと思っていました。

数千部程度の発行数だと、全国の書店に並ぶのも、1店に1、2冊程度で、1冊売れれば他の人は手にとって眺めることすらできなくなってしまいます。
私小説的な構成の場合、読者を選んでいるため、大掛かりな宣伝もしてくれませんから、その1冊が売れるとそれで終わりです。
でも読み手の人生観に影響を与えられるのは、こういうつくり方なのだろうな、と改めて感じ入りました。

一方で、一般受けするにはドラマを仕立てればよいこともわかっています。
ドラマの大原則は決まっていて、(1)男女の恋情のやりとりがある、(2)政治(敵と味方)的な争いがある、(3)生と死がある、(4)共に戦う仲間がいる、の4つ。欧米では、これに(5)神の意志の所在が加わるようですが、中国の金庸の小説や黒澤映画は忠実にこのパターンを踏んでいます。

「北斗英雄伝」は、この金庸・黒澤パターンを忠実に踏んでいますが、「あんたのファン」と言われてしまうと、少し考えてしまいます。
一般受けする絵空事で良いのか、生き方をつき詰める姿勢が良いのか、ということですが、どこかで折り合いをつける必要はありそうです。
侍の話の合間に、津波に翻弄される人々の悲喜を書かないと、どうも落ち着きません。