日刊早坂ノボル新聞

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第4話(女傑伝説) おれんの話  (玉山:現盛岡市の伝説)

第4話(女傑伝説) おれんの話  (玉山:現盛岡市の伝説)

 昔語りには、必ず豪傑伝が出てくるが、女傑の話も少なくない。これもそんな話の1つである。

 今は昔。巻堀の岩崎から玉山城の玉山氏へ、「おれん」という娘が嫁いだ。おれんは美人の上に怪力の持ち主で、不来方(盛岡)へ出る時には、鉄の足駄をはき、道の中央を歩いたと言われている。
 おれんは、道の途中で道路の上に邪魔になる物があれば、持ち前の怪力で片づけて歩いた。牛や馬などが道路をふさいでいると、これを両手で軽く持ち上げて道端に移した。
 このため、人々はおれんが通りかかると、道の端に寄り、この女の通行の妨げにならないように心掛けた。おれんの方も、他人に余計な気くばりをさせまいと、自然と道の中央を歩くようになったのである。
 
 こんな怪力ぶりに玉山家では「あれは化け物だ」と恐れ、適当な理由を見つけて、遂にはおれんを追い出してしまった。
 しかし、これより先玉山に嫁ぐ時、おれんは親に「女は嫁いだらどんなことかあっても実家には戻るな」ときつく言いわたされてあった。このため、おれんは玉山の家を追い出されてからも実家には帰らず、野山や道端で野宿して暮らしていた。

 このことは、すぐに世間の噂になる。ある者はわざわざ玉山城を訪れ、「あの女はいずれこの家を恨みに思い、復讐に来るだろう」と当主に向かって注進した。
 玉山家では、「めざわりな奴」と思い、かつ怪力のおれんに恐れをなし、マタギを頼みおれんを撃ち殺してしまったという。

 おれんは死に臨み、近寄ってきたマタギに向かい、「わたしは何も悪いことをしてはいない。それなのに・・・」と、悲憤の涙を流しながら言った。
 しかし、いよいよ死が近づく。
 おれんは最後に「玉山の家には七代祟るぞ。また今後、この玉山には力の強い者が一切出ないようにしてやる」と叫んで息絶えた。
 その後、おれんの遺した言葉の通り、玉山家には不幸が続き、また力持ちも出なくなったと伝えられている。
 現在の玉山城址の麓(ふもと)、城内には、おれんを祭る小さいお堂と、おれんの持ち上げたという大きな岩が道端にあるが、お堂の方は「おれんこ堂」、石は「おれんこ石」と呼ばれている。
 はい。どんとはれ。

注)「おれんこ堂」、「おれんこ石」:おれんの堂、おれんの石の方言。

<ひと口コメント>
 美人の上、力持ちだったおれんの不幸な結末は、多く江戸の伝説とされていますが、話の起こりは戦国末期、16世紀のことだろうと考えられます。玉山氏が隆盛を極めたのは16世紀の始めくらいまでで、その後は没落し、隣の日戸氏の家臣に近い立場になります。その後、九戸の戦いを機に再興し、藩制下になると玉山氏は盛岡城下に移り住みますので、少なくともそれより前の話になるというわけです。
 また玉山氏の盛岡移住とともに、玉山城は破却になっていますので、この後ではありえません。
 「おれんこ堂」、「おれんこ石」はこの地に実在しました。今もあるのではないでしょうか。

出典:玉山村『村誌たまやま』(昭和54年)
 なお、細部は書き加えてあります。