日刊早坂ノボル新聞

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天正19年九戸戦前後の領知区分図

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画像は、豊臣秀吉による南部信直への7郡安堵の構成を示しています。天正18年の小田原攻めの直後では、南部七郡は三戸、二戸、九戸、北、岩手、閉伊、鹿角を指します。天正19年では南部七郡に志和、稗貫、和賀が正式に加わり、糠部、岩手、閉伊、鹿角で7郡となります。このうち糠部を旧来の区分に合わせて言う時には南部10郡となります。
しかし、九戸戦以後は、後者の7郡の方が多く使われることになります。
戦の後に、南部方の諸侯が北郡、二戸、九戸に配置されることにより、厳密に境界を区別する必要が無くなったことによります。

明治以後の郡制との違いは、葛巻覚右衛門の領が岩手郡(いわてのこおり:いわてごおり)ではなく、糠部郡(ぬかのぶのこおり)に入っていることです。