日刊早坂ノボル新聞

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脇話: 戦国時代の「東中務」

戦国の北奥に関する解説書やネット辞書で、多く間違っているのは、東中務が誰かということです。

東(ひがし)一族の跡取りは、代々「中務(なかつかさ)」を襲名しており、古文書では、「東中務」としか書かれていません。
忌み名は通常は用いられませんので、当たり前ではあります。

16世紀では、概ね2人の「東中務」が出てきます。
1人は東中務政勝で、主に中ごろに活躍した人です。この人は、南部晴政の女(むすめ)を娶りましたが、晴政と仲が悪かった信直の方を支持し、晴政、晴継亡き後に、信直が南部家を継ぐ際に尽力した人物です。同じく晴政の入り婿となった信直とは、義兄弟の関係にあたります。
この政勝が死んだのは天正18年ごろですが、その何年か前から隠居し、静かに暮らしていたようです。

もう1人の東中務は、政勝の孫の中務尉信義で、天正18年の政勝の死去の前後に名跡を継いだようで、その際に「信義」と名乗るようになったのです。
九戸戦の前後に出てくる東中務と東朝政は同一人物で、これはこの時期の出来事に関する記録が書かれたのが、総て70、80年後のことだったためです。
この東信義は自分の忌み名に、南部信直から1字を貰っていたのに、信直の没後、朝政に名前を変えました。
東中務にとって、信直との間に、快からぬことがあったのだろうと想像します。

この「東中務」について政勝から朝政に至るまで同一人物と解釈し、総て朝政を宛てているものが多くありますが、そうなるとこの人は百年くらい生きたことになります。
まあ、戦国北奥には90台まで生きた北信愛という人物もいますが、20歳台の若者が30歳、40歳年上の女性を妻に迎えたりしないのは明らかなので、同じ東中務でも別人のことだと解釈するほうが妥当でしょう。