日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

<北斗英雄伝>一戸城訪問記

 「九戸戦始末記 北斗英雄伝」の第18章「紅蓮の章」は、一戸城攻防戦をめぐる話になります。この箇所は資料的には皆無で、伝記物でも殆ど書かれていません。
 手垢の付いた作り話が残っていないと、非常に助かります。昔の空想家が机の上で考えた話でも、それしか存在しないとなると、史実に近い扱いとなってしまいます。そんなのは、無い方がはるかにましです。
 残念ながら、九戸戦の伝記は大半が作り話か捏造です。
 
 国道4号線の一戸バイパスを北上し、御所野縄文公園を通り過ぎると、左側に「一戸公園」の小さな看板が見えて来ます。40台くらいが入る駐車場の奥に細道があり、さらにその奥に小さな広場があります。
「ええ!これが城跡なの?」
左側に、神社のような建物があり、そちらに向かうと、下り階段の途中に「一戸城址」の標柱がひっそりと立っていました。
ここに、北館があったのは間違い無さそうです。
 ちょっと、ちょっと。町の皆さん。城の案内図看板くらいは立てましょうよ!
 
 まずは、看板と駐車場の画像です。
イメージ 4イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
駐車場と、その奥にひっそりと立っている城跡の標柱です。
 
イメージ 6
イメージ 7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北館は土手の上にありますが、城の中心は坂下にあったようです。いまでは人家が密集しており、どこがどこやらわかりませんが、馬渕川の方まで、曲輪(くるわ)がいくつかあったのだろうと思われます。
川が造り出した沖積平野の上に点在していて、城と町が繋がっていたのかも知れません。
 
一戸城は、三戸や九戸により、獲ったり獲られたりしていたと推定出来ますが、こんな平城では、確かに「攻め易く、守り難い城」だったのかも知れません。
もちろん、攻めるなら「まず上から」で、先に北館を攻め、ここを足掛かりに、下の神明館を攻めるというのが定法だろうと思います。弓でも鉄砲でも、上から攻める方が有利です。
 
北館の下の道です。このさらに下に車の通れる道があります。
右の画像は、北館下から望む一戸の町です。
 
イメージ 8
イメージ 9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昔の名残がほとんど残っていないのは、トコトン破壊されたということでしょうか。
 
ちなみに、この城跡の近くにある御所野縄文公園は、町の博物館・公園としてはすこぶる立派です。
入り口から博物館に向かう「沢渡りの橋」も、思いの他高度があり、高い所の苦手な私は胆を冷やしました。
展示品も、なかなか見ごたえがあります。
九戸戦関係の資料としては、浅野長吉が発行した環住令の元文写しがありました。
 
まず、御所野縄文公園の渡り橋入り口と、橋の中の様子です。
 
イメージ 10イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
環住令の説明書きと全体像です。もしかして撮影禁止だったかもしれませんが(確認していない)、遠目でノンフラッシュなので、ご勘弁下さい。
 
イメージ 2イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「紅蓮の章」の一戸攻防戦では、九戸党は蒲生軍1万5千を城内に引き込んだ後、内外から火を放ちます。
あわや壊滅させる寸前まで到達しますが、九戸政実の決断で火攻めを解き放ちます。
 
紅蓮の章とは、その名の通り、紅蜘蛛お蓮のためのストーリーです。
お蓮は、傷付いた工藤右馬之助の命を救うために、疾風(五右衛門)に右馬之助を城外に運ばせ、ひとり城に残りました。お蓮は爆薬に火を投じ、脱出口は大爆発することになります。
さて、お蓮の運命やいかに。