日刊早坂ノボル新聞

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「北斗英雄伝」はいよいよ最終章に その1

昨日より盛岡タイムス紙上で、「北斗英雄伝」がついに「北斗妙見の章」に入りました。
この章は、宮野城が包囲されてから開城となるまでのエピソードとなります。
 
まだ60回くらい残っており、かつこれから原稿を書く部分もありますが、筆者としては早くも「終わった感」の中にあります。
九戸戦との出会いは、かれこれ30年近く前になりますが、ようやくここまでこぎつけました。
 
骨董趣味の私は、地方の郷土資料館を訪れるのが趣味になってます。
偶然、二戸資料館を訪れた時、九戸政実に関する資料を見て、「圧倒的多数の敵を前にして、何故こんな無謀な戦いに挑んだのか」という疑問を感じました。
資料を引いてみると、一様に「世の中の変化に疎かった」と書いてあります。歴史家のお得意の結果論なのですが、あまりにも短絡的な評です。
しかし、どの書を見ても同じことが書いてある。
よくよく調べると、かつての偉い学者が、そういう評定をして、それが脈々と受け継がれていたのでした。
 
通常、郷土史では、様々な資料が存在し、それを取りまとめて事実確認に至るというステップを踏みますが、
九戸戦のケースでは、全く逆です。
要するに、根拠となる事実は極端に少なく、それから派生した話が変化して拡散しているようです。
残された資料は、その殆どが天正末期(九戸戦当時)より70、80年は後になってから書かれた物です。
大半が軍記物で、中には幕末・明治に新たに起こされた作品もあります。
地元の人はご存知ないだろうと思いますが、日本史の研究者にはこれらは「偽文書」と位置づけられています。
 
小説の使命は、「心情を汲む」ところにあります。
史実が不確かであれば、推定を含めて書き記しても捏造とは言われません。
浅野家伝では、「九戸政実が浅野長吉の前に現れた時、最初に申し出たのが、南部信直の所領の安堵だった」と書かれています。
これは南部藩史や多くの歴史学者が伝える所と、相容れません。
政実によるこの申し出の裏には何があったのか。
これを想像し推測するのが、本作の目的でした。   (続く)