日刊早坂ノボル新聞

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(北斗英雄伝) 19章 北斗妙見の章(前編)の要約 その1

其の十九
 北斗妙見 ( みょうけん )の章の要約(その1)
 
「妙見」とは「物事を見通す優れた力」の意で、善悪や真理を見通す者ということである。妙見菩薩は、他の印度仏教を由来とする菩薩とは異なり、中国の星宿思想に基づき北極星を神格化したものである(北辰・北斗妙見)。九戸一族は、この妙見菩薩を守り神としている。
 
 天正十九年八月二十七日卯の刻。
 上方遠征軍は、前日中に全軍が宮野城に集結していた。また西からは出羽勢、北西からは津軽勢、北からは南部勢が寄せ、宮野城を包囲した。
 
 まず宮野城の北側には、地元勢を率いた南部信直が陣取った。白鳥川の向こう岸のその位置からは城の様子は見えない。よって、戦の趨勢を知る為には、頻繁に物見・伝令を送る必要がある。
 馬渕川の西岸には、北から松前(蠣崎)慶広、津軽(大浦)為信、秋田(安東)実季、仁賀保勝利、小野寺義道が陣取った。
 次に城の東には井伊直政、その南には浅野長吉が本陣を構えた。
 さらに、大手門の正面には堀尾吉晴が布陣し、そのやや西に蒲生氏郷が陣取っている。
 
 卯の刻となり、堀尾、蒲生勢が進攻を開始した。
 大手門の手前七丁迄寄せると、そこで、まず双方三千兵ずつが鬨の声を上げながら門前に殺到した。この城攻めの第一波では、攻め手の側に三百人の死者と、それとほぼ同数の負傷者を出した。
 まさに攻める側の完敗である。
 
東側から井伊直政が石沢館に攻め掛かった。宮野城の曲輪の中で、若狭館と石沢館は、本丸から比較的独立した構造となっている。
この内、石沢館の方は本来厩であり、防御の備えに薄い。
 井伊直政は、この時を逃すまじと、一気果敢に攻め掛かった。
「空同然の館を落とすことなど、一時も要らぬわ」
 直政は自ら陣頭で指揮を執り、二千兵で館の横腹を突こうとした。
 攻め手が館に取り付いた、まさにその時、次々と館の塀に小穴が開いた。
 石沢館の塀には、五十を超える銃眼が開けられていたのである。
「やや」
 攻め手の兵たちが一様に眼を見張る。
 すかさずその銃眼から火縄銃の黒い銃身が突き出ると、攻め手に向け一斉に射撃を開始した。
 最初の銃撃が一旦収まると、今度は高櫓の上から矢が雨と射られる。その攻撃が終わると、再び銃撃が始まる。
「これはいかん。ひとまずは退け」
井伊軍は、一旦攻撃を中止し、再び猫渕川を渡った。
九戸政実は、攻め手の予想に反し、石沢館に一千人近くの兵力を置いていたのであった。九戸方でこの方角の守備に当たったのは、大湯四郎左衛門と大里修理である。
 
 同日の申の下刻。
上方遠征軍の本陣の中では、蒲生氏郷と浅野長吉が頭を寄せていた
「御免」
 片手で陣幕を除け、四郎兵衛が中に入ると、氏郷が顔を上げた。
「四郎兵衛。首尾はどうだ」
 氏郷の問いには、四郎兵衛の傍らにいた物見の兵が答える。
「六百人程やられました。負傷兵は凡そ四百。傷を受けた者の半分は深手にござります」
「・・・」 
 氏郷の顔が歪んだ。
「たった二度の攻撃で六百人が死んだか。未だ大手門に指一つ掛けられぬと申すのにな」
「申し訳ござりませぬ」
 四郎兵衛は地面に膝を落とし、両手を着いた。
 
 天正十九年八月二十八日。
本陣に曽根内匠が現れた。内匠は一人の男を従えている。男の名は常呂兵衛と言った。
 兵衛は、敵の鉄砲隊の力量を測る為、自らが捧げ持つ的を、城内の工藤右馬之助に撃たせようと言うのである。
 常呂の申し出は勿論策略であるが、兵の士気を落とさぬ為には、ここで逃げる訳には行かない。
右馬之助は一戸城で受けた傷が癒えず、鉄砲を構える事が出来ない。
 そこでその代わりに平八が立ち、三十匁砲をもって、因縁の相手である常呂兵衛を的の傘ごと撃ち倒した。
 
 天正十九年八月二十九日。
 再び上方征討軍による攻撃が始まった。
前日とは異なり、今度は主力の大半を投入する作戦に出たのである。
 上方軍に較べると、九戸方は明らかに兵力に劣る。よって、東南二方向から一度に攻めれば、必ず防御線の何処かが崩れる筈である。
まず蒲生、堀尾の両軍が、西の台(後の松の丸)を盛んに攻め始めた。
 
 西の台では、櫛引清政が兵たちに号令を掛けていた。
「聞け、法師岡の ( つわもの )たちよ!」
防護柵の内側に造られた盛り土の陰には、主と共に法師岡から来た百五十人の兵たちがいた。
 丁度敵の攻撃が一旦小休止した頃合である。皆が揃って主の方に顔を向けた。
「三戸と戦えぬのはちと惜しいが、今我らが戦っているのは、その三戸の主・南部大膳が頼みとする鬼関白の手の者じゃ。糠部の民の生き死には、我らの戦いように懸かっている。上方の ( やわ )い奴らに、武士 ( もののふ )の死にざまが何たるかを見せてくれようぞ!」
「おう」「おう」
 この鬨の声が終わらぬ内に、新たな敵襲が始まった。
 既に二番柵も引き倒され、四五百人の敵が斜面をよじ登っていた。その後ろには、さらに数千人が続いている。
この斜面を上り切ると、西の台の中心に侵入する事が可能となる。程無く西の台が敵の手に落ちるのは歴然である。
「そりゃあ!」
 櫛引清政は、郭上に上がって来ようとする敵を、槍で次々と突き殺した。
 周囲では、清政と同じように、九戸方の兵士たちが敵に応戦している。
 しかし攻め手は、あたかも雲霞 ( うんか )の群れのようにこの高台に殺到していた。
「篠。もうじきじゃ。わしは漸くお前の所に行けるぞ」 
 清政の脳裏では、 ( にこ )やかに微笑む妻・篠の姿がはっきりと見えていた。
 八月二十九日午の下刻。櫛引左馬助清政討死。
 
 同日亥の刻。
 西南の三の郭(丸)の外から、蒲生軍を主力とする総勢八千が陣太鼓を打ち鳴らし、鬨の声を上げた。
 その声は、まさに山々を揺るがすかという程の大音声であった。さらに蒲生軍は、殆ど間を置かず宮野城に銃撃を加え始める。
宮野城内では、必然的に敵が西南から攻め入って来ると見なし、直ちに三の郭方面への兵力を増強した。
 その隙に、東では井伊直政が水濠の切り崩しに掛かる。猫渕川の堤防を決壊させると、川の水位が下がる為、濠から水が流出する。要するに濠の水脈を閉じる作戦である。
 宮野城内では、当初はこの事態に気付かなかった。丑の刻になり、若狭館の見張りが濠の水位の低下を発見し、直ちに本郭に報告した。
 この時、若狭館の兵を指揮していたのは、久慈中務(政則)である。政実は今が最も重要な戦局であると考え、己の実弟である中務を、この館に送ったのであった。
 
 攻め手の井伊直政は八丁後ろに陣を構えていたが、此処に報せが届いた。
兵は地面に片膝を落とし、ぜいぜいと息を荒げながら報告する。
「猫渕川の土手は崩しました。朝には濠の水は引きます」
「しかし・・・」
 これで直政は、自軍に相当の被害が出たことを知った。勿論、城からの激しい銃声は、直政の耳にも届いていた。
「どれ程の怪我人が出たのだ?」
 その兵は直政に返事をする為に顔を上げた。
「闇の中でござりましたので、今だ定かではござりませぬが、死人が三百から、事によると五百に達したかも知れませぬ」
 直政はこれを聞くと、落胆の表情を顔に表わした。
「僅か今日一日の間に、六百から八百の兵を失ったと申すのか。それでは、この俺は既に負けたも同然ではないか」
 井伊直政がこの地に連れて来た兵力は、三千に幾分満たぬ程度である。此迄の死傷者を合計すると、既に自軍の三分に近い損耗となる。
 まだ三十を過ぎたばかりの侍大将は、「ふう」と溜め息を吐き、ゆっくりと床机に腰を下ろした。