日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

禁じ手

かつて、自民党政権の末期に明らかになったのは、政治家が国民をなめきっているという事実でした。
現在の自民党幹事長の石原伸晃氏が、当時、「北海道の高速道路は熊しか走らない」と言ったことは、いまだ記憶に新しいです。
道路交通を損得ビジネス的に捉えるのは、土台がおかしな話で、たとえ話としては極めて不適切でした。
少なくとも住民を小ばかにした姿勢と受け止められても仕方がない。
ま、東京育ちで有名作家・政治家の息子なので、県外へはヨットハーバーくらいしか行ったことがないでしょうから、致し方ありません(これは中傷ですが、上掲の「熊」と同次元の表現なのであえて書きます)。
このひと言のおかげで、この人は総理大臣にはなれないし、なるべきではない。人生が透けて見えてます。
 
次に国民を失望させたのは、古賀幹事長(当時)による東国原氏の担ぎ出し。
宮崎県を立て直すはずが、これを中途で辞め、国政進出する、させる意味はどこにあるのか。
この人には国政に進出して、訴えるべき政治理念なり政策がまったく見えませんでした。
要するに、古賀氏の考えていたことは、国民に受けそうな人、メディアの露出度の高い人を出せば、票が集まるだろうという浅知恵によるものです。
その結果、本人に「総理になりたい」云々を言われる、あのていたらくです。野心しか持たない人を担ごうとしたことで、自民党支持者の大半が白けてしまった。
 
当たり前ですが、国政は人でなく、政策ですよ。
市町村規模の決め事なら、「顔」が重要で、信用の証にもなりうるでしょうが、国全体では常に不特定多数が相手です。
このため、利害関係を同じくする人の集まり(支持母体・利益団体)と、政策理念を実現するための政党や政治結社の代表として、代議士がいるのです。これ以外の国民は、各政党の政策を検討し、自分がそれに同意できるかどうか量らなくてはなりません
よって、いずれの立場(政党支持者)でも、有権者は候補者が国政の場で何を訴えるのかを、十分にチェックしなくてはなりません。
 
東国原氏は次の選挙でも立候補が取りざたされていますが、国政で何を訴えるのか、まったく不明のままです。
現在はタレント活動が主のようで、この数年、この人の政治的主張を見聞きしたことは記憶にありません。
やはり前回と同じで、政治理念も政策も空白のまま。この人が持っているのは、「かつて地方自治体の首長だった」というキャリアだけです。
 
この人は、国政の場では、いわゆる「禁じ手」だろうと感じます。
各界の代表、たとえばスポーツ選手が代議士に転じるケースがありますが、それは参議院の話です。
現在に繋がっていない「首長キャリア」だけを持ち、政治理念をまったく持たない人を、国政に出そうという発想がどうかしてます。
しかも、候補として検討しているのは、「国会議員を半減させる」ことを謳う人たちです(まだ政党ではない)。
議員半減なら、真っ先に切り捨てるべき存在だと思いますが、いかがなもんでしょう。
 
政治理念の中核すら固まっていないのに、「まずは政局ありき」で進むのは、東南アジアのクーデターレベルです。
政体とその人脈で利益を得る人が交代するだけで、何一つ本質は変わりません。
「維新」という耳ざわりの良い「包み紙」だけが先にあり、中身は相互に関連性のない8つのお菓子(政策めいたもの)だけが入っています。これでこの政治結社(まだ政党ではない)を支持しようという人は、よほどおめでたいです。
あるいは、それほどまで日本社会全体に閉塞感が蔓延している。
それでも、「まずは政局から」がスタートラインでは、かつての自民党以上に白けてしまいます。
 
(「8策」は各論だけとはいえ、一応、最近はなんぼか良くなってきました。もちろん、少なくとも「読む気になる」ということで、絵空事でなく検証できる内容にしてもらわないと効果測定ができません。)