日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

(日高・飯能)高麗神社29回目の参拝

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疲れが溜まっていたようで、午前中に眠りに就き、目が醒めたら3時を回っていました。
いくら夜型の生活をしていても、昼には起きることが多いのですが、今日は起きられませんでした。
その代わり、十分に睡眠時間を取ったので、目覚めた後はスッキリ・ハッキリです。

買い物に出るついでに、高麗神社へ。
これで、29日目の参拝となります。
(連日の暑さが厳しいので、さすがに「百日詣」が長く感じられるようになってきました。)

以下は前回28回目(昨日)に、家人と話した内容です。

努力をした人が、正当な結果を求めて祈願するのは当然のこと。
ただし、金や財産が増えること自体は、必ずしも正当な結果とは限らない。

お金は、塩分や高カロリーの食事、酒や麻薬などと変わらない怖さがある。
欲望を誘う強烈なアイテムなので、「もっともっと」と求めるようになる。
ソコソコ持っているだけで。自分が優れていると錯覚するようになる。
このため、金運をもたらす神さまは、基本的に高級な神ではない。
商売繁盛ならまだしも、相場とか、博打で価値をもたらすのは、どちらかと言えば低級なほう。

「もし、最短距離で金を求めるなら、欲望を掻き立てる方が早い。欲望は悪心の近くにあるので、悪いことを考えると、そういう運が寄って来やすいんだよ」
たとえば、商売仇がいたとしたら、「死ねばいいのに」と思う。
不幸な人を見たら、「ざまあみろ」と考える。

こういう話をした時に、車が前に割り込んできて、危険な動きをしました。
「こういうヤツを見たら、お前は交通事故に遭って死ね、と叫ぶ」
もはや、神を引き寄せているのではなく、悪霊や悪魔の次元で、「呪い」同然です。

「話は極端だけど、そんなもんだよ」
本当に恐ろしいのは、財力が出来てから。
「これは俺の実力だ」「お前らは能力がないから、ダメなんだ」という思考をするようになります。

生きている限り、欲望があるのは当たり前で、一時それにゆだねるのも構いません。
しかし、やってよいのはどこまでかを見極める姿勢と、ごく普通の日常に戻って来れらるかどうかが、重要だろうと思います。

といった与太話をしました。
自分で話しながら、「こりゃ半信半疑だよな」と思っていたのですが、帰宅した後、試しに日曜の競馬で実践してみました。
「競馬場に来ているバカどもの金を、俺がいただく。容赦せず、全部取り切るからな。お前らみたいに才能の無い奴らに、俺がバクチを教えたる」
まさに悪心そのものです。
馬券を買う時は、いつも「ただの直感」で、馬名を声に出して読み、ピンときた馬を買うのですが、やはり大体当たりません。
しかし、「悪心」が効いたのか、今回はほぼ半年ぶりに当てました。
あんれまあ、本当なのかよ。
あてずっぽうなので、ほぼ1点買いですが、そのおかげで益率がやたら高くなります。
単勝から三連単まで、すべて1点で的中した結果を見ると、「けして偶然ではないだろうな」と思います。

29日目の今日は、そのことを冷静に振り返りました。
「しかし、これはけして幸運なわけじゃないんだよな。心や魂が救済されるかどうかとは、まったく関わりない」
財力があると、「自分は才能があり、運もあるから今の境遇も当然の帰結だ」と考えるようになります。
そこが最大の罠です。
物質的に恵まれるのは、魂の救済には関係ありません。

ただしもちろん、総ての欲望に背を向けるのも正しくありません。
「いずれにせよ、とらわれ過ぎないことが肝心だよな」
手水場で手を清めながら、「執着心や欲望は、ここに来た時に全部捨てよう」と思いました。
ようやく「百日詣」に適応してきたようです。

ご神木に手を当てた後、下を見たら、沢山の厄銭が落ちていました。
同じことをする人が増えているようです。
これは、人が意図的に落とした「厄」なので、けして拾ってはいけません。