カテゴリに「報道」や「新聞」が見当たりません。
ふーん。
さて、朝日の虚偽報道に関連して、思いついたことを少々。
十年くらい前に、ある東北の田舎町に、某大手流通資本が進出しました。
ま、三文字のショッピングモールと言えば、すぐに分かります。
その際に、その県で最大の地方紙に紹介記事が出ました。
その記事は、概ね「突然、巨大企業が進出したので、地元の商店街では『黒船が来た』とうろたえている」という内容でした。
たまたま、その地域は私の田舎で、実家も商店を営んでいました。
記事の内容に、もの凄く違和感を感じます。
(え?今どき、「黒船が来た」なんて言い回しをする人はいるのかいな?)
その町には、商店街と言えるようなものはなく、店舗数は10軒に到達しません。
しかも、皆知り合いです。
記事が新聞に出た数日後に、郷里を訪れる機会がありましたので、電話を掛けて訊いてみました。
「おたくでは『黒船が来た』って、新聞記者に話しましたか?」
全部の商店主の答は、「そんな話はしていないよ」というものでした。
ここが最重要のポイントです。
続けて、商店主たちが口を揃えて言ったことは、次の通り。
「なぜなら、そこの新聞はここに取材になんか来ていないもの」
やっぱりね。
『黒船』なんて表現は、小賢しいヤツが頭で考えたものですよ。
この場合、取材に来て、自分の考えを入れ込んだ記事なら「正しいとは言えない報道」ですが、取材にも来ていないのでは、誤報にもならぬ「作り話」(または単なる「ウソ」)ですよ。
(それを基に考え直すと、朝日の報道は、慰安婦は不確かな報道であり誤報ですが、原発の方は「作り話」「虚偽報道」になりますね。)
ちなみに、大企業が進出したその田舎町では、地元の商店主たちにどのように受け止められていたのでしょうか。
ポイントは3つです。
1)集客力が違うので、同じ品揃えをしていては到底かなわない。
2)しかし、従来の商圏の外から大量に客が入ってくる。
3)すなわち、商品を差別化すれば、生き残れるだけでなく、飛躍できるかもしれない。
このため、ある店では、食品の中心を冷凍・冷蔵食品でなく、「生」に置くという対応をしたのです。
すなわち「住み分け」をするという考え方です。
例えば、握り寿司は、近海物の生握りにする。
これは大手スーパーでは絶対に出来ない品揃えです。
あとは消費者が、見た目だけでなく、質の判断が出来るかどうか、が勝負の分かれ目になります。
都心のこのスーパーの生鮮食品売り場が、一体どうなったかを見れば、田舎の人は驚くだろうと思います。
たとえ中小企業の商店でも、商売のやり方に関する議論は、こういう水準で行っています。
『黒船』でうろたえると思いたいのは、大企業にすり寄る新聞記者のボケナス頭ですよ。
ま、取材に出ると言っては、タイヤ交換スペースや、高速サービスエリア、それこそ大手スーパーの駐車場で寝ているのでしょうから、現場を見ろと言っても、土台無理な話ですね。
どんな報道でも、必ず記者や編集の「人の眼」を通して、味付けされているものと見なし、どこからどこまでが「事実」で、どの部分が「主観的評定」なのかを考える必要がありそうです。
日本でもこれなのだから、諸外国では推して知るべし。
民主党内閣時代に、総理大臣と中国首脳とが会談した時に、日本でのニュースと現地報道(BS)とを見比べる機会がありました。
総理のコメントの内容は日本語なので、日本人はよく分かりますが、中国ではまったく別の報道がされていました。
あちらの報道によると、日本が尖閣を国有化するまでは、「常に中国は尖閣を自国領土として見なして来た」らしいです。日本は急にそれを奪い取った。
中韓国民は、バカみたいに民族主義的ですが、過分に政府とメディアに踊らされている面があるようです。
悪いのは、意図をもって情報を捻じ曲げる輩だろうと感じます。
とりあえず、国民をミスリードするようなメディア媒体は、その1つ2つ潰しても良いのではないかと思います。主張の内容についてではなく(これは思想のコントロールになる)、報道の姿勢と方法が間違っているということです。
相手の言い分に耳を傾けることは大切ですが、話をねつ造する報道は害悪でしかありません。
朝日新聞は、もはや無くとも良いのではないかと思います。