◎「60ミリの男」 ─ひとの生きざま・死にざま─
5年位前に、初めて心臓病で入院した時のことです。
冠状動脈が3本同時に詰まり、ひと月の間に2回施術を受けました。
「入院」の先輩である母が「個室だと気が滅入るから、大部屋で他の人と世間話が出来る環境の方が良いよ」と言うので、6人部屋に入りました。
と言うより、その時、個室は空いていませんでした。
私が居たのは、重篤な患者ばかりが入る部屋です。
皆、上下チューブに繋がれ、寝たきりです。
5日目くらいに、隣に50台半ばのオヤジが入りました。
このオヤジは初日から夜中に「きりきり」と歯ぎしりをします。
これが消灯から朝方まで続きました。
煩くて寝られやしない。オヤジ本人だって、ほとんど眠って居ない筈。
ところが、誰も文句を言いません。
2日目に医師が回診した時に、隣から話が聞こえて来たので、そのオヤジの状況が分かりました。
このオヤジは商社マンで、中国に赴任していた。
そこで、猿の脳味噌を食べたら、その夜から具合が悪くなった。
(「インディ・ジョ-ンズ」の2番目の映画に出て来るあれです。)
現地の救急病院に入院したが、原因が分からない。
胃の周りが重くてどうしようもないので、ひとまず帰国し、日本の病院に行った。
すると、胃の裏の動脈に瘤が出来ていることが分かったので、埼玉では循環器科で有名なその病院に転院した、という話でした。
その胃の裏の動脈瘤というのが、なんと60ミリ超だと言います。
「普通、動脈瘤は2、3ミリでも命に関わる。それが60ミリ超では・・・」
破裂すると即死するし、手術も困難を極めます。
数日後に手術を受けることが決まっているが、医師の説明に家族や親戚が呼ばれていた模様です。(通常、これはかなり深刻な状況出ることを指します。ま、当方も家族を呼ばれていましたが。)
そんなわけで、不安でたまらず、夜中に歯ぎしりをしていたのです。
ところが、そういう状況はそのオヤジ1人ではなく、向かいの鈴木さんだって、心筋梗塞と脳梗塞を同時に患い、何度も治療を受けている重篤な患者でした。
あまり怒らない人で、担当の看護師がヘタクソで、点滴を打つのに6回しくじったのに、鈴木さんは黙って耐えていました。危篤の時に、注射の下手な看護師に当たるのは、まさに拷問ですよ。
他の患者だって、各々切羽詰まっている状況なので、隣のオヤジの歯ぎしりは応えます。
3日目の夜になり、さすがに「眠れない」とナースステーションに苦情を言いに行こうとしたら、奥の患者が先に行っていました。
すぐに看護師が来て対応し、その夜たまたま空いた個室に、そのオヤジが移ることになったのです。
一番ホッとしたのは、当方かもしれません。
猿の脳味噌を食べて、胃の裏に動脈瘤が出来るなんて、「もしかしてウイルス?」と疑っていたからです。
このため、カーテンはずっと閉めたままでした。
2日くらいして、点滴台を押して、そのオヤジがいる個室の前に行ってみたのですが、部屋は空いていました。
「ってことは、そういう意味だよな」
発病してから、まだ3週間くらい。覚悟が出来る前だったろうと思います。
自分も同じ線の上に立っているので、「可哀相」とか「気の毒」などとは思わないものです。明日は我が身で、とても他人事じゃない。
それ以後は、「ひとの生き死に」がごく身近になったので、なんとも思わなくなりました。
循環器病棟で集中治療室の近くの部屋にひと月もいれば、周りの患者が40人は入れ替わります。退院したり、地下に行ったり。
偉い人も普通の人も、金持ちも貧乏人も同じです。
「一緒に昼ご飯を食べた時には何ともなかったのに」
「病気ひとつしたことが無かったのに」
でも、そんなもんだよ。次はオレやあなたの番かも。しかも、予想できないくらい早く来るかも。
短編の「死神」は、その後、向かい側の鈴木さんとの会話を記したもので、ほとんどが実話です。夜中の病棟を、キャリアカートを押して歩く婆さん(死神)がいるという病院伝説で、当方もそのカートが立てる赤ん坊の「がらがら」のような音を聞きました。
結末だけ、少し脚色してあるのですが、集中治療室に入っている「高橋先生」がエレベータに乗るところは、実際に見ました。
ちょうどその頃には、その人は亡くなっている筈なのですが。
「夢幻行」は3割以上が実話なのです。
生死の狭間のことが知りたかったら、まずはこれを買って読むと良いです(笑)。
次も病院で、当方の担当医と「60ミリの男」の話です。いつ頃、公表できるかは分からないですが、10月中には書いて置きます。なにせ病棟では他にやる事がありません。