日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎峠を越えて (223日目)

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◎峠を越えて (223日目)

 諸手続きに必要があり、本日、証明写真を撮影したのです。
 病院の帰りでしたので、ろくに写真を見ずに持ち帰り、先ほど見直しました。
 「ありゃ」
 プリントされた自分の顔は、数か月前とは一変していました。
 かなり痩せたので、顔つきが変わって見えるのは当たり前ですが、血色が良くなっています。生気が戻っているのですね。
 身体的なものだけでなく、心の状態もかなり変化しているようです。

 まあ、それも当たり前です。
 ついひと月半くらい前までは、ごく目の前に死神を見ていました。(比喩です。)
 眼を醒ましてから閉じるまで、常に「自分がほどなく死ぬ」であろうことを意識していたのです。
 このため、喜怒哀楽が激しくなったり、誰かの言動に過剰反応したり、と感情を統制できませんでした。
 幾人かの知人の死に間際を見ていますが、やはり同じことが起きていたようです。
(「ようです」と言うのは、自分自身では意識していない・できないからです。)
 皆さんお気の毒で見ていられないほどでした。
 先週、郷里で知人に会ったのですが、やはり私についても「声を掛けるのも憚られるくらいだった」とのことです。
 具体的に見えて来る「死」は、それまで頭に考えていたものとはまるで違います。
 死神は、こちらの人格を一変させるほど怖ろしい姿をしています。

 退院後、ひと月半が経ち、今の私は人生の再構築を試みているところです。
 自身の周囲数辰糧楼呂靴見えなかったのに、今は少し遠くまで見えるようになりました。
 まったく前と異なると自覚できるのは、「丹田に力が入る」ことです。言葉の通り、また「腹を据えて」対処することが出来るようになりそうです。
 まあ、「死神が見えなくなった」と言っても、単に背後に回っただけです。
 ほんのちょっと気を許すと、わずか1週間で人生は終わります。

 それでも、後ろを向かず前向きに考えられますので、今の状態は有難いです。
 もはや5,6年は忘れていた「自分本来の姿」を思い出しつつありますね。
 この状態がどれくらい続くのかは分かりませんが、たぶん、半年くらいは死なないだろうと思います。
 「まだ死なない」を確信できるのは大切なことです。
 「明日がある」と信じられると、自暴自棄にならず前進できるようになるからです。

 画像は、久々に訪れた高麗神社の桜です。
 まだ二分咲で、当方の心境と同じです。
 帰りにトラちゃん(猫)を見掛けたのですが、子どもに追い駆けられ、すぐに姿を消してしまいました。