夢の話 第652夜 チャンピオン
1月5日の午睡で観た夢です。
今は昔。と言ってもそんなに古くない「少し昔」の話だ。
ひとりの男がいた。
男はボクサーで、既に30歳を過ぎている。
人は少しの才能があれば、努力次第でソコソコのところまで行ける。人並み以上の努力によって、誰でも「一流の下」くらいのところまでは到達出来る。
だがそこから先が難しい。一流に達し、そこからさらに超一流の高みに上るためには、生まれ持った「何か」と「運」を必要とする。
男はそれなりの成績を収めたのだが、チャンピオンにはなれなかった。
「何か」が欠けていたのだ。
年齢が上がったこともあり、既に試合を組まれることもほとんど無くなった。
自分でも「この辺が潮時か」と考え始めている。
そんな時、男はダブル・タイトルマッチに臨むチャンピオンから、「スパーリングパートナーになってくれ」という依頼を受けた。
それも試合直前にただ1回の話で、報道陣を集めての公開練習の相手だった。
「なるほど。ロートルの俺を叩きのめして、相手にアピールしようというのが狙いだな」
そこそこの成績で、かつ峠を越えている。男はそのイメージにぴったりだった。
すると、男の頭に悪魔が囁いた。
「これもチャンスじゃないか。スパーリングでチャンピオンを倒してしまえば、俺にチャンスが巡って来るかもしれん」
だが、男は自分に「何か」が欠けていることを知っていた。
経験や勘ではない。持って生まれた「何か」だ。
思い余った男は、ひとりの祈祷師の許を訪れた。
「俺には天性の何かが足りない。どうかそれを与えてくれませんか」
祈祷師はちょっとの間考えたが、力強い言葉で答えた。
「出来ますね。貴方に過去のチャンピオンの霊を乗り移らせましょう。不世出のチャンピオンの閃きを味方に付ければ、貴方の経験があれば必ず勝てます」
嬉しい言葉に、男は小躍りした。
その姿を眺めながら、祈祷師が言葉を続ける。
「しかし、既にあの世に渡った霊を呼び戻すことは出来ません。もはや生前の人格を失っているからです。ひとに憑依させることの可能な霊は、この世に留まっている霊で、すなわち総てが悪霊です」
「そんなことは構いません。俺は俺の人生を証明出来れば、あとはどうなっても構いません」
「そうですか。それではやってみましょう。お礼はファイトマネーの3割でどうですか」
男が返事をする前に、祈祷師はさっさと仕度を始めた。
スパーリングの日が来た。
チャンピオンは体調がすこぶる良いらしく、颯爽としていた。
自信たっぷりで、男のことをろくに見もしなかった。
「俺のことなんか眼中にないのだな」
男は心中で「それなら、本当に好機が巡って来ている」と考え、自身の感情や気配が表に出ぬように気を配った。
スパーリングが始まり、早速、カメラのフラッシュがきらめく。
すぐに終わってしまうだろうから、早いうちに二人が戦っている姿を撮る必要があるためだ。
記者たちの見込んだ通り、この日は3分5ラウンドのスパーリングを行う筈だったが、1ラウンド早々に試合は終わってしまった。
男が右フック1発でチャンピオンをKOしてしまったのだ。
これを取材していた記者たちは、騒然となった。
男のパンチが、17年前に死んだチャンピオンの「カシアス紅」にそっくりだったからだ。
チャンピオンは顎の骨を折り、そのまま救急車で病院に運ばれた。
翌日のスポーツ紙はこの件で持ちきりになり、男がチャンピオンを倒すシーンはテレビでも放送された。
チャンピオンが試合に出られなくなったので、ダブル・タイトルマッチは流れてしまう。しかし、KO場面が余りに鮮やかだったから、「あのロートルを代打にしろ」という声が持ち上がった
その試合に出るはずのもう一人のチャンピオンがそれを聞き、「ではあいつを抜擢しよう」と発言した。興行に穴を開けると、莫大な損失が出るから、プロモーターもトレーナーも、もちろん、反対などしない。
「まるで『ロッキー』みたいな展開だが、ひとつ問題があります。散々、放送されたせいで、カシアス紅の『幻の右フック』は、たぶん、次は通用しない。相手のチャンピオンは気を引き締めて練習して来るだろうから、もう一人二人の霊に憑依して貰う必要がありそう」
「良いですよ。割り増し料金ですけどね」
祈祷師は二つ返事で、悪霊を呼び寄せた。
タイトルマッチの日が来た。
男が控え室に座っていると、プロモーターがやって来た。
「今、先方にも話をして来たが、5ラウンドまではお互いに様子を見てくれよ。予想以上の客の入りだし、早々に終わったら客が暴れる。そんなことのないように、双方とも気をつけてくれ。6ラウンドからは好きにやって良いから」
男は霊を背負っているので、自分の体を思うようにコントロール出来ない。
困っていると、今度は祈祷師が控え室に入って来た。
祈祷師は、男が勝てばファイトマネーの3割を貰える約束なので、試合を見に来たのだ。
「それじゃあ、ラウンドごとに霊を替えよう。最初はアウトボクサーで、強打の主は6ラウンドからだ」
試合が始まった。
観客はラウンドごとに、男がスタイルを替えるのを見て、騒然と沸き立った。
「あれはまるで大原正男だ」
「今度は保尼譲二じゃないか」
「こんなに上手いボクサーが埋もれていたのか」
男はチャンピオンを翻弄するが、しかし試合を決めには行かない。
そして6ランドが来た。
「よし。やはりカシアス紅を出そう。これで決める」
ゴングが鳴った。
男は『幻の右フック』を繰り出し、チャンピオンを追い詰める。
しかし、チャンピオンも準備をして来ており、一発で倒すことは出来なかった。
6ラウンドが終わり、男がコーナーに戻って来る。
男はセコンドに呟いた。
「何だか足がふらつくんだよな」
セコンドが檄を飛ばす。
「おい。お前は全然打たれていないじゃないか。相手を圧倒している。次の回はKOして来い」
7ラウンドが始まる。
男は別人に変わって、チャンピオンに走り寄った。
わずか二十秒で、男はチャンピオンをノックアウトした。
その姿を見て、観客が再び騒然となった。
「あれはバレロ江戸じゃないか。すごい。バレロが戻って来た」
男はついにチャンピオンになった。
長い間、待ち望んでいた成果を世に知らしめることが出来たのだ。
だが、それも長くは続かなかった。
試合後の検査で、男の尿から薬物が検出されたのだ。
「そんな馬鹿な。俺は薬物などやっていない」
すると、男の隣で祈祷師が舌打ちをした。
「イケネ。バレロ江戸は薬物中毒で死んだヤツだ。不味いやつを乗り移らせてしまっていた」
ここで覚醒。
夢なので断片的な筋になっています。